違和感いっぱい、「グローバル・スタンダード」
最近、よく目にする言葉、
「グローバル・スタンダード」。
私が最も違和感を覚えるのは、
海外での働き方
外国人との仕事の進め方
外国人とのコミュニケーション
に関する「グローバル・スタンダード」
です。
「グローバル・スタンダード」というと、
「世界で通用する、標準的なやり方」
という意味になりますが、
「世界に通用する働き方」とか
「グローバルなコミュニケーション作法」
を謳った話を聞いていると、
外資系企業における欧米人との仕事の仕方
を考察したものが多いように思います。
この場合、
「グローバル・スタンダード」
「世界に通用する」
という言葉は正確ではなく、
あくまで
「欧米人との仕事におけるスタンダード」
「欧米資本の外資・多国籍企業で通用する
仕事の仕方」
とするのが適当であって、
「グローバル・スタンダード」
は言い過ぎ、不適切だと感じます。
私は中東のヨルダンにいますが、
「外資系スタンダード」「欧米スタンダード」
を「グローバル・スタンダード」としてヨルダ
ンで適用しても仕事になりません。
あるいは、
「グローバル・スタンダード」を
「これが世界でのスタンダードだから」
と相手に押し付けたところで、相手からの
反発をくらうだけです。
極端な例かもしれませんが、
ヨルダンではアポの時間はあくまで目安で、
アポに遅れても詫びる必要もなく、
アポに遅れた相手を咎めることもありません。
「遅刻はグローバル・スタンダードに反する」
とばかりに遅れた相手を責めたところで、
「なんだ?お前は神か?
(Are you God?)」
と本気で睨まれるか、
「まあまあ、神を責めるな
(Don't blame God)」
とたしなめられるだけです。
その他、「グローバル・スタンダード」を謳
ったある著作には、コミュニケーションを取る
上で重要なこととして
・要点を簡潔に述べること
・結論を先に、理由や背景は後の順番で話すこと
というのもあります。
しかし、ヨルダンで結論を先に、簡潔に述べ
たところで相手は戸惑うか、こちらのことを
不審に思うだけです。
結論を先に言うと
「なんだ、唐突に!?」となります。
その結論がまだ相手にとって都合のいい、
耳に心地よいものであればまだしも、
悪いニュース、失敗など、あまり聞きたく
ないことであれば、それを聞いた段階で興奮
してしまい、その後に続く說明を聞く耳を
もたなくなります。
また、簡潔に説明すると
「は?それだけ?」となります。
ヨルダンでは、簡潔な說明しかしない人間は、
なにか情報を他に隠しているのではないかと
疑われます。
また簡潔である上、感情の入っていない抑揚
のない話には、何がポイントなのか、何が重要
なのかが相手に伝わりません。
何より、中東には
「口数が少ない者は教養がない者」
という言い回しがあります。
簡潔に、端的に話すよりも、あれこれ寄り道の
話を交えながら、感情やボディランゲージを
あらわしつつ饒舌に話した方が相手の納得感が
高まる社会もあるということです。
その他、ちまたに溢れている
「グローバル・スタンダード」を振りかざし、
単刀直入に思ったことを述べて相手の顰蹙を
かったり、怒りを招いて玉砕している日本人
をこれまでたくさん見てきました。
エリン・メイヤー著
『異文化理解力(英知出版)』
にもありますが、相手にどうネガティブな
ことを伝えるか、どのようなネガティブ発言
なら許容されるかは欧米人の間でも認識に差
があります。
私自身も経験がありますが、
ドイツやオランダの方々は、涙が出てしまい
そうになるぐらいケチョンケチョンにこちらの
ことを口撃してきます
(相手に悪気はありません)。
一方、アメリカ人は意外にもネガティブなこ
とを伝えるときは「やさしい」ものです。
10のうち、8ぐらいポジティブな話をして、
残りの2のネガティブな部分も、できるだけ
ポジティブな表現をつかってやんわりと示す
ようなイメージです。
このように、「欧米人」の間でさえ仕事の
仕方やコミュニケーションの方法には幅が
あります。
北欧、東欧、南欧という地域差に加え、
アメリカやイギリス等のアングロサクソン系、
ドイツなどのゲルマン系の人たちとの間でも
仕事の仕方、コミュニケーション作法は違い
ます。
これらの例からも明らかなとおり、
「グローバル・スタンダードなんか、ない」
のです。
もし、
「スタンダード」と呼ばれるものがあるとす
るなら、それはある特定の地域や、特定の
企業、組織内でのみ通用するものにすぎませ
ん。
外資系企業、多国籍企業での欧米人との仕事
の進め方、コミュニケーションの仕方は、
あくまでもそれら職場環境におけるスタンダ
ードであって「グローバル・スタンダード」
ではないのです。