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昔話

「ごめんね」
「どうして謝るの」

友達が亡くなって、私が謝る。
どうして謝ったんだろう。

亡くなった友達は大学の友人だった。
2月22日、猫の日だ、と共通の友人から言われた時は語呂合わせをした。
受け入れがたかった死は、時を進むと同時に現実味を帯び、共通の友人と会った際にはこの集まりがあるということは彼女が死んだことを明確に証明していて、重かった。

大学の同期を亡くしたのは2回目で、身近な人を自殺で亡くしたのは3回目だった。
慣れたくはなかった。

亡くなった彼女はネイリストで、共通の友人が電話で彼女の死を告げる際「爪塗ってくれるって約束してたのに」と叫んでいた様子は今でもフラッシュバックする。その度に胸が締め付けられる。

ああ、もう助けるとか救うとか無理なんだと悟った。


話は変わる。

仲の良い高校の先輩がいた。
彼女は容姿端麗だった。
かなり心を病んでしまっていた。
彼女を私は受け入れて、いた。
どうしてなのかはよくわからないが、彼女を自分以外の人間が受け入れられると思えられなかった。
死にたい、と電話がくる。死にたい、とメッセージがくる。出れる時は出て、返せる時はすぐ返した。

彼女は言いにくいが、今思えば私の負担になっていた。
認めたくはなかったが、周りがお前を傷つけてるだけだ、離れたほうがいいと言うので離れる決心をし、やっと去年離れることができた。

「勝手に死ねば」

が彼女の最後の言葉だった。

死にそうな、病んだ人間が、好きなんだと思います。と誰かへの手紙で書いたことがある。
どうしてかって?
そんなの書かなくてもわかるでしょう。

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