#14 背中
精神的に困難や障害を抱え相談に来られる人に相対するときの難しさは、たとえば内科や外科など身体の病気で医療機関を受診する人との場合と比べるとわかりやすいかもしれない。病院では医師が患者の身体や患部を直接見たりさまざまな診察や検査を行い、病因や病名などを特定し治療方法を決めることができる。もし精神分野の専門家が同じように相手のこころや精神を直接あるいは何らかの手法を用いて見たり触ったりすることができるならば、その人が抱える問題や精神状態を明確に把握することはそう難しくないはずである。
ところがあいにく人の身体とこころは違う。当たり前だが身体のほとんどについては直接見たり触れたり医療機器を駆使して観察することができるのだが、いわゆるこころや精神はそうはいかない。それらを実体として直接見ることはできない。それは神経生理学や神経心理学、分子生物学といった生命科学諸分野における研究が進み最新の知見が蓄積され、脳機能や遺伝子のメカニズムがさまざま可視化されつつある現代においても基本的には変わらない。
したがって、こころを診る専門家は、相手の精神状態について「間接的」手段を用いて知るほかない。訴えや会話の内容や顔表情、口調・しぐさ・振舞いといったさまざまな行動から手がかりを得ようとしたり、専門的な知識や理論に基づいて説明や解釈をする、あるいはまた自身に蓄積されている経験知性に照らし合わせて相手の訴えているところを共感的に理解しようとしたりとさまざま努力をするのだが、いずれにしてもそれは間接的判断であることには変わりはない。相手のこころの状態すべてが手に取るように分かったり見えたりなどということは本来的に不可能だといえる。
間接的観察や判断の限界との葛藤を常に抱えているという点ではカウンセリングもまた同様である。
本人が自分の意志で相談に訪れるからといって、話す内容や表情、態度、こちらの問いかけに対する答えなどが常に率直にありのままを表現、反映しているとは限らない。言わないこと言いたくないこと、忘れていること気づかないこと、そもそも自分でも説明しがたいことも珍しくない。重要な事実を避けたり論点をずらしたり、誇張や過小評価といった、自分を守りたいがゆえの意識的無意識な言動や反応も、苦しいのだがなかなか素直に向き合えない不甲斐なさや罪意識、恥の感覚といった心情として充分理解できる。そもそも率直でない反応が常に悪いわけでもない。社会における対人コミュニケーションとして望ましい態度、相手や状況に配慮した善意に基づく健康的で知的な配慮であるとすら言える場合もある。むしろそうした配慮ができず自分を取り繕うことを一切放棄しているような振舞いを見せる人の方がかえってその精神状態が心配であろう。
こうしたさまざまな困難を乗り越え人を理解し支えていくるための工夫や配慮が、精神医療や心理援助の現場では日々試され重ねられていると言える。
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クライアントとのカウンセリングを終えると私は通常、簡単な雑談なり挨拶を交わしながら相手を出口まで見送り、そのままドアを閉じ室内へと戻る。だがある時、ふとなぜかすぐ部屋の方へ振り返らずにドアからエレベーターホールまで歩いて十数秒はかかる直線の廊下を去ってゆくクライアントの後ろ姿をしばらくそっと見送ることがあった。そしてそのとき以来、私は人の背中や後ろ姿が実に多彩な表情を見せること、相手の精神状態を理解する手がかりとしての豊富な情報を持っていることに気づかされた。もちろんこっそり後ろ姿を眺めることは失礼にもあたるのでいつもするわけにはいかないが、相手の状態がとても気がかりなときだったり、カウンセリングのなかでなにかしっくりこないものがあると感じるときなどにそれとなく観察することにしている。
普段の生活や街中で私たちが人の背中を目にすることは珍しくない。だがそれはじっと見たり観察したりする対象というより、ただ「目に入る」程度のものである。場合によってはその人の正面の顔かたちや年頃、ことによると職業を想像するくらいはあるかもしれないが、せいぜいがその程度であろう。
だが、背中はときにその人の精神状態を色濃く反映する。カウンセリングを終えドアから外へ出たあとの背中はそれぞれだ。たとえば、出るが早いか携帯を取り出し歩きながら見入る人、忘れ物がないかバッグの中を改める人、ゆったりきょろきょろと周囲を見渡しながらエレベータへ向かう人、次の予定へと歩を早める人など、そんないわば日常ありがちな行動をとるクライアントの背中を見ると私は少し安心する。カウンセリングという特殊な時間から自分の日常モードに素直に切り替えのできるような、こころに柔軟性なり余裕がある状態だと推測できるからだ。カウンセリングが順調であったり現状の精神状態も比較的落ち着いていると考えてよいケースに多い印象だ。
また、その背中や後ろ姿がたとえ辛そうだったり不安定な状態に見えたとしても、それが直前のカウンセリングの席上で見せた精神状態や対話内容といった正面の「顔」と矛盾なく説明のつくような場合であれば、首尾一貫しているという点で理解できまた安心する余地もある。
悩ましいのは、カウンセリングで見せる「顔」とはまったく異なる表情の背中を見せられたような時だ。
礼儀正しく、誠実な表情を崩さず自分の問題をよどみなく語っていったある中年男性の後ろ姿は、それがつい数分前までの同じ本人かと見まごうばかりに弱々しく無防備に見えた。
とある大企業の元会社役員は、時折笑顔やユーモアさえ交えながら冷静に悩みと過去を語った。が、廊下の途中のその背中はしばらく歩いたあとなぜか立ち止まり少しの間固まってしまっていた。途方に暮れたようにも見えたその姿に、ある小説の一節、『長生きしすぎたことに、突然気付いたかのような急速な老けかた』が私の頭をよぎったものだ。
おとなしく内向的に見え、しぐさがやや緩慢でぽつぽつと自分の症状を語っていた女性の、真っ赤なハイヒールがずんずん立ち去っていった背中からは、怒りともいら立ちとも取れる空気が湧きたっているようにはっきりと感じられた。
こうしたことは心もとない主観であったり間接的手がかりにしかすぎないのだが、そうした気づきをどこか頭の隅に入れておきつつ以降の話し合いを進めていくと、それは確実になにがしかの役に立ってゆく。そうした些細な手掛かりのギクシャクとした積み重ねが、こころの理解にはとても大事に思える。
伝説の写真家ソール・ライターが映し出す、ニューヨークの街を生きる名もなき人々の後ろ姿は、それぞれが抱える悲喜こもごもの日常の人生の機微を雄弁に物語る。そして山本が表現するように、たしかに自分のものなのに本人には決して見えず、他人しか知らないものが私たちの背中である。
そこはいわば本人にとって隙だらけの、内なる自分がさらけ出されていることに気づかないこころの死角だ。こころの重荷や過去がそこに重くのしかかっていることに自身気づくのは難しい。
けれども、他の誰かが気づいてあげることはできる。その抱えた荷物を下ろすよう優しく肩を叩くこともできるだろう。そしてその役割はなにも専門家である必要はないはずである。そのことを常に忘れずにいたい。
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