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植村甲午郎と阿部謙夫

植村甲午郎(うえむら こうごろう)と阿部謙夫(あべ しずお)と言っても、今では知らない人がほとんどだと思う。植村は経団連会長や1972年札幌オリンピック組織委員会会長を務めた人物。阿部は北海道放送(HBC)社長や札幌交響楽団理事長をしていた人物である。どちらも、今から50年くらい前にはかなり有名な人だった。この2人が、小学校で同期だったというのだが、資料を読んでみるとどうもつじつまの合わない点があるので、検証してみたい。

小学校入学まで

植村甲午郎は、明治27年(1884年)2月12日に東京で生まれた(戸籍上は3月12日生まれ)。父・澄三郎が北海道炭礦鉄道や札幌麦酒の役員だったことから、生後3か月で札幌に渡る。最初は北2条西12丁目の北炭の社宅に住み、1年半ほどしてから、北2条東4丁目の札幌麦酒工場の一角に移った(「私の履歴書」29頁)。現在、工場跡地にある商業施設・サッポロファクトリーの敷地には、澄三郎の胸像がある。

一方、阿部謙夫は植村と同じ年の4月13日に札幌区北2条西12丁目で生まれた。これも北炭の社宅である。父・宇之八は北海道毎日新聞を主宰していた人物だが、なぜ北炭の社宅にいたのか、不明である。阿部家も明治30年(1897年)10月に北3条東4丁目に転居した(『阿部宇之八伝』274頁)。札幌麦酒工場から道路1本を隔てた隣の区画である。

2人は創成川を渡って、今の札幌市役所の場所にあった創成尋常小学校(北1条西2丁目)に通うことになる。近所だから、登下校が一緒になることもあったかもしれない。

植村の小学校入学後

植村はこう書いている。

札幌時代の学友には、北海道新聞社長を経て、いま北海道放送の社長をしている阿部謙夫君がいる。彼は秀才で、一年生のときは私が総代になったかもしれないが、二年のときは彼が総代であったことは確かだ。(略)
私の両親は明治三十三年の暮れ、札幌麦酒の東京進出に伴い東京へ移住したが、私だけは二年生の三学期が終わるまで札幌にとどまることになり、(略)大村さん(引用者注:親戚)の家に預けられた。
三学期が終わって、私は一人で旅立つことになった。(略)
こうして私は、明治三十四年の四月、慶応幼稚舎に三年生として入学した。(略)私が入学する少し前、その年の二月に福沢諭吉先生がなくなられた。入学したころは全学あげて悲しみの中にあり、私たちも入学すると何よりも先に福沢先生のお墓にみんなしてもうでた。

植村「私の履歴書」33-34頁

福沢諭吉が亡くなったのは、たしかに明治34年(1901年)2月3日のことである。そうすると、植村が創成尋常小学校に入学したのは明治32年(1899年)4月ということになるはずだが、その時、甲午郎ちゃんは満5歳である。
一方、謙夫ちゃんは4月13日生まれだから、甲午郎ちゃんと同学年なら新学期の時点でまだ満4歳である。そんなことが可能だったのだろうか。

明治32年当時施行されていた第二次小学校令の条文はこうなっている。

第八条 尋常小学校ノ修業年限ハ三箇年又ハ四箇年トシ高等小学校ノ修業年限ハ二箇年三箇年又ハ四箇年トス
第二十条 ①児童満六歳ヨリ満十四歳ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス
②学齢児童ヲ保護スヘキ者ハ其学齢児童ヲシテ尋常小学校ノ教科ヲ卒ラサル間ハ就学セシムルノ義務アルモノトス
③前項ノ義務ハ児童ノ学齢ニ達シタル年ノ学年ノ始メヨリ生スルモノトス(以下略)

小学校令(明治23年10月7日勅令第215号)

これを見る限り、小学校に入るのは満6歳になってからのはずだ。しかし、その後に出た第三次小学校令の条文は、次のようになっている。

第十八条 尋常小学校ノ修業年限ハ四箇年トシ高等小学校ノ修業年限ハ二箇年、三箇年、又ハ四箇年トス
第三十二条 ①児童満六歳ニ達シタル翌月ヨリ満十四歳ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス
②学齢児童ノ学齢ニ達シタル月以後ニ於ケル最初ノ学年ノ始ヲ以テ就学ノ始期トシ尋常小学校ノ教科ヲ修了シタルトキヲ以テ就学ノ終期トス
(以下略)
第三十七条 児童ノ年齢就学ノ始期ニ達セサル者ハ之ヲ小学校ニ入学セシムルコトヲ得ス

小学校令(明治33年8月20日勅令第344号)

この時に、尋常小学校の修業年限がそれまで3~4年と幅があったのから4年に固定され(第18条)、就学の始期・終期が定義されている(第32条第2項)が、注目されるのは、満6歳に達しない児童の入学が禁止されたこと(第37条)である。第二次小学校令には、このような規定はなかった。そうすると、これ以前は6歳未満の小学校1年生もいたのではないかということになる。
さて、慶応幼稚舎は明治31年(1898年)から6年制になっている(『慶應義塾七十五年史』257頁)から、植村はそのまま行けば明治38年(1905年)に幼稚舎を卒業したはずである。そこでエスカレーター式に(という言葉は当時なかったと思うが)慶應普通部には進まず、府立一中を受験して合格したとある(「私の履歴書」39頁)。
当時の中学校令の条文を見てみよう。

第九条 中学校ノ修業年限ハ五箇年トス但シ一箇年以内ノ補習科ヲ置クコトヲ得
第十条 中学校ニ入学スルコトヲ得ル者ハ年齢十二年以上ニシテ高等小学校第二学年ノ課程ヲ卒リタル者又ハ之ト同等ノ学力ヲ有スル者タルヘシ

中学校令(明治32年2月7日勅令第28号)

このように中学校の修業年限は5年だから、すんなり卒業して明治43年(1910年)。そこから一浪して一高に入学したとある(「私の履歴書」43-44頁)。そうすると明治44年(1911年)一高入学ということになりそうだが、実際にはそうではなくて、植村の名は大正元年(1912年)の一高合格者名簿(右ページ上段左から6人目)に載っている。
どこで計算が狂ったのだろう?私はどうも、小学校入学の時期が怪しいと思う。本当は明治33年入学で、福沢先生のお墓参りも、一周忌を過ぎた明治35年になってから行ったのではないだろうか。あるいは札幌に2年生までいたというのが間違いで、1年生を終わってすぐに東京に行ったのではないかとも考えられるが、さすがに1年と2年の差は大きいから、そのような記憶違いは考えにくいように思う。実は、筆者の手元には創成小学校の同窓生名簿というのもあって、これが非常に間違いの多い、どこまで信用できるかわからない代物なのだが、植村の名は「札幌区創成尋常小学校明治33年4月~明治37年1月入学」として載っている。この書き方だといつ入学したのかわからないが、明治33年4月入学と解釈しておけばつじつまが合う。

追記:「北海道新聞」1959年7月5日13面に植村のインタビュー記事「休日放談」によると、植村が札幌で過ごしたのは明治35年までとなっている。

阿部の小学校入学後

では、阿部の方はどうか。
本人が自分の小学生時代のことを詳しく書いたものは見当たらないが、創成小学校の創立百周年記念誌にこう書いている。

この百年の間に多数の立派な人が出ております。経団連会長植村甲午郎氏が、嘗て自分と同時代に学ばれたことも、悦ばしい歴史の一節でしょう。

『創成百年』8頁

また、同窓生名簿では植村と同じく「札幌区創成尋常小学校明治33年4月~明治37年1月入学」として載っている。これは上にも書いたように、わかりにくい書き方だが、おそらく「明治33年4月入学」の意味だと思われる。阿部の没後に編纂された追憶誌の年表では「明治33年(1900)3月 札幌区中央創成小学校に入学」(『その微笑』366頁)となっていて、「3月」入学というのが疑問であるのと、学校名が不正確である点(正しくは「札幌区創成尋常小学校」)を除けば、上で推理した植村と同期入学ということになる。年表には尋常小学校卒業・高等小学校入学の時期は載っていないが、「明治39年(1906)3月 札幌区西創成高等小学校卒業」(『その微笑』367頁)とある(これも正しい学校名は「札幌区創成高等小学校」)。高等小学校を出て北海道庁立札幌中学校に進むが、これについては本人の書いたものがある。

自分が在校したのは明治の末期、39年から44までである。

札幌南高『六十年史』167頁

また、札中を出た年に一高に入学していることは、合格者名簿(右ページ3段目左から8人目)で確認できる。(ちなみに名前の上に×印が付いているのは無試験検定合格で、とびきりの秀才だったことを意味する。)したがってこちらはきちんとつじつまが合うのだが、尋常小学校には満5歳で入学したことになる。これは上で述べたように、第二次小学校令の時代まではこういうことがあったらしく、阿部が尋常1年の明治33年8月20日に出た第三次小学校令で禁止されている(施行は同年9月1日)。

追記:明治33年(1900年)3月1日『北海道毎日新聞』に次のような「公告」があることから、阿部は制度上明治33年4月入学すべき者の扱いであったことがわかる。

当区内在住ノ学齢児童ニシテ本年四月入学スメ(ママ)キ者(自明治二十六年五月至同廿七年四月出生者及ヒ未就学者ハ本月十日ヨリ入校票下付候条当所第一課教育係ニ申ツ(ママ)ヘシ
明治三十三年三月一日 北海道札幌区役所

再会

植村は浪人したので、阿部に1年遅れて一高に入学した。寮の食堂を出たところで「植村君じゃないか。札幌の阿部だよ」と声をかけられたという(『その微笑』41頁)。小学校で同学年だったことは間違いなさそうなので、植村が「私の履歴書」を書くときに、東京に転居した年を間違えて、その年に福沢先生が亡くなったと書いてしまったというのが、おそらく真相であろう。見出し画像は両者75歳の頃(『その微笑』13頁より借用)。

追記:植村が札幌オリンピック組織委員会会長就任を受諾した際の阿部のコメントを発見した。阿部の方でも、小学校時代の植村をはっきりと記憶していたようだ。

植村さんは、札幌中央創成尋常高等小学校(現・創成小)に小学2年まで在学していたが、1年生の終業式のとき、総代として壇上に登って終業証書を受け取った姿を印象深く覚えている。(略)その後、おとうさんの仕事の関係で東京へ行ったが、一高時代、学校の廊下で出会って旧交を暖め、それ以来、機会あるごとに顔を合わせ歓談している。

「北海道新聞」1966年7月6日10面

参考文献

  • 慶應義塾『慶應義塾七十五年史』1932年

  • 阿部宇之八伝記刊行会『阿部宇之八伝』1933年

  • 北海道札幌南高等学校『六十年史』1955年

  • 植村甲午郎「私の履歴書」『私の履歴書 32』日本経済新聞社、1968年

  • 札幌市立創成小学校『創成百年 札幌の生いたちとともに』1971年

  • 北海道放送『その微笑 阿部謙夫追憶誌』1973年

  • 札幌市立創成小学校『創建百十年記念 同窓生名簿 創成』1981年


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