仮校舎と資生館の位置
前回の記事「資生館ができた日」に続き、開校150周年私的記念事業として、資生館が正式開校する前に仮校舎が置かれた場所、および正式開校後の校舎はどこにあったのかという問題を取り上げてみたい。
根拠となる資料
再度引用するが、『札幌区史』389頁には次のようにある。
資生館は札幌教育所の嚆矢なり。明治3年12月24日、島判官造営の本陣内に仮校舎を設け、(中略)移民子弟の教育を開始せしが、4年10月、今の北1条東2丁目に移転し、初めて資生館と称し(後略)
これに加えて、前回も引用した明治36年の尾形発言を、山崎長吉『札幌教育史 上巻』24頁がもう少し詳しく引用しているので、それを見てみよう。
予ハ資生館生徒ナリ、資生館ノ発端ハ明治3年12月24日ニシテ南1条西1丁目(現今蹄鉄工場馬頭看板アル処)ニ仮校舎ヲ設ケテ開校セリ、(中略)明治4年10月北1条東1丁目(現今上星小間物店辺ノ角ニ当ル)ニ移転セリ(後略)
仮校舎の位置
まず、仮校舎の位置であるが、上記資料2つを合わせると、「南1条西1丁目」にあった「島判官造営の本陣内」とのことである。「本陣」とは耳慣れない言葉だが、先ほど引用した『札幌区史』の同じページに説明があって、「官吏の宿泊すべき旅宿」のことをいい、島義勇判官時代の本陣は志村鉄市(「鉄一」とも書く)の通行屋を移したものだという。ここでまた耳慣れない「通行屋」という言葉が出てきたが、『新札幌市史 第1巻』824頁にこうある。
新道の開削とともに、現在の豊平3条1丁目付近にトヨヒラの通行屋がおかれた。通行屋は旅行者の休憩・宿泊施設で、トヨヒラ通行屋は豊平川の渡舟業務もはたした。
そして同書826頁にこう書かれている。
トヨヒラの通行屋の管理にあたったのは、札幌市内最初の和人居住者として名高い志村鉄一(市)であった(中略)通行屋は、間口10間、奥行4間の規模であった。
そうすると、豊平3条1丁目(豊平川の右岸)にあった間口10間(18.2m)、奥行4間(7.3m)の建物を南1条西1丁目に移築したことになる。豊平川に最初の橋が架けられたのは明治4年(『新札幌市史 第2巻』194頁)というから、船で運んだのかもしれないが、ちょっとよくわからない。
それはさておき、南1条西1丁目と言っても広い。どの辺りに本陣が置かれたのか、「明治3年札幌地図」で見てみよう。「御本陳」とあるのが「御本陣」のことらしい。しかしこのままでは方角も縮尺もわからないので、『札幌歴史地図 明治編』(さっぽろ文庫別冊)33頁の解説を参照する。
明治3年までの創成川両岸の建設状況を示す図である。図の右が南で、創成川を横断する図の右端の道路は、現南1条通りである。(中略)中央の東西方向に流れる小川(胆振川)の両側の建物は、少主典邸という官舎、その南方の二むねの長屋は、使掌長屋という下級役人の官舎である。「御本陳(ママ)」は、官設旅館の本陣である。(中略)なお、御本陣と使掌長屋のあたりが、現在の大通りの位置にあたる。
そうすると、「御本陳」は南1条というより少し北の、大通西1丁目あたりなのだろうか。
河野常吉編『さっぽろの昔話 明治編下』所収の深谷鉄三郎氏談(明治31年7月27日)16頁にはこうある。
開拓使になってから、志村に給与されていたものは残らず取上げて家まで立去らせたので、その家を日本銀行の後口の所へ引いて参って、これを札幌の本陣とし(後略)
日本銀行がその頃どこにあったのかというと、明治34年の「札幌市街区画明細図」によれば、創成橋から見て北西の角地、現在JCB札幌東ビルがある場所と考えられる。(ちなみに、現在創成川公園内にある「札幌建設の地碑」は、元はこのビルの南東の角にあった。)その「後口の所」というのがどこなのかわからないが、付近であることは間違いなさそうだ。
ところで、上で引用した明治36年尾形発言に「現今蹄鉄工場馬頭看板アル処」とあったが、これはどこなのだろうか。地図にも載っていない小さな工場かと思っていたが、実は載っているのだ。7年の隔たりはあるが、明治43年「札幌区商工新地図」を見ると、今の北光教会の南側に「萩中蹄鉄工場」というのがある。
というわけで、以上の資料から、仮校舎の設置された仮本陣は、今の大通西1丁目東向き、現在まるいパーキングBになっているあたりと推定できる。後に正式な本陣が建てられた南2条東1丁目には「クラーク博士居住地跡」の表示板があるのに比べ、仮本陣跡の方は実に影が薄い。
まるいパーキングBの写真を載せておこう。
資生館の位置
続いて、資生館が正式に開校した場所を探る。冒頭で引用した『札幌区史』では「北1条東2丁目」となっているのに対し、尾形発言では「北1条東1丁目」となっている。(注意深い読者はお気づきかもしれないが、前回引用した『創成百年』の尾形発言では、「北1条東2丁目」となっていた。尾形発言の引用元である『札幌区史史料』を所蔵している函館市中央図書館に問い合わせたところ、原文では「北1条東1丁目」とのことだ。)
資生館は、明治5年に「札幌学校」となるが、明治8年になると、札幌農学校の前身となる学校が「札幌学校」として開校するため、同名を避けるため「雨竜学校」と改称される。この名称は、当時の街路名「雨竜通」に由来する。先ほど引用した『札幌区史』の右側ページにわかりやすい表が載っているが、当時の札幌にはまだ条丁目というのがなくて、街路に北海道各地の地名が付けられていた。東2丁目通北部が雨竜通である。西2丁目通南部は胆振通なので、もしそこに学校ができていれば「いぶりがっこ」になっていたはずだ。それはさておき、雨竜通に面した場所だとすると、今の住所では西側は東1丁目、東側は東2丁目ということになるはずだが、一体どちらが本当なのだろうか。
ここで、尾形発言の「現今上星小間物店辺ノ角ニ当ル」というカッコ書きがヒントになる。これもありがたいことに、明治43年「札幌区商工新地図」に載っているのである。北1条東1丁目(北1条通の北、東2丁目通の西)南東の角に「小間物雑貨 上・神田商店」がある。現在ここは、札幌ベルエポック美容専門学校になっている。
札幌市に問い合わせてみると、この場所は、昭和53年に「北1条東2丁目」から「北1条東1丁目」に変更されたとのことであった。だから古い本に資生館の場所が「今の北1条東2丁目」と書いてあったとしても、それは当時としては正しかったのかもしれない。
札幌ベルエポック美容専門学校の写真。2023年4月にはここから移転するらしい。