資生館ができた日
今年で開校150周年
明治4年、開拓使は資生館を設置した。札幌で最初の学校である。当初は主に20~30歳の生徒を対象として皇漢学を教えていたというが、その後、改組・改称を重ねて札幌学校、雨竜学校、第一小学校、創成小学校となる。これが2校に分裂して中央創成小学校と西創成小学校になり、後に再統合して創成小学校に戻る。私の母校でもある再統合後の創成小学校は、元をたどれば資生館になるというので、昭和46年(1971年)に創立100周年のお祝いをしたのであるが、あれから50年経った今、もうその学校はない。平成16年(2004年)に近隣の3つの小学校と統合し、跡に資生館小学校ができた。この資生館小学校は、名前の古めかしさとは裏腹に、あくまでもこの時に新設されたという建前を取っているから、今年開校150周年のお祭り騒ぎはない。しかし何もないのはちょっと寂しいので、私的記念事業として、母校の始まりについて調べてみた。
開校記念日は10月26日
私が通っていた頃、創成小学校の開校記念日は10月26日で、明治4年のこの日に資生館が開校したと聞いていた。「この日」と言っても、明治4年は天保暦の時代であり、10月26日というのはグレゴリオ暦1871年12月8日なのだが、そんなことは知らず、毎年10月25日になると紅白まんじゅうをもらって帰り、翌26日は休みだった記憶がある。昭和46年(1971年)発行の記念誌『創成百年』にも次のように書かれている。
明治4年10月26日、本校の前身である資生館は、北1条東2丁目で開校した。(中略)この資生館を創基として、その正式開校をみた10月26日を、開校記念日としているのである。
ところが、この記念誌で引用されている次の2つの資料では、「明治4年10月」まではわかるが、「26日」とは書いていないのである。
【資料1】昭和10年(日付不明)『北海タイムス』記事
之は意外、札幌今昔秘篇④ 学校の嚆矢
それは、明治3年12月24日、島判官造営の仮本陣内に居候していた仮校舎(中略)校舎といってもそれは名ばかりで、例の志村鉄一の通行屋を移して僅々320両というはした金を以って建設したもの。(中略)俄然忽ち狭隘を感ずるに至って、本陣は翌4年7月南1条東1丁目に移転、学校も同年10月、今の北1条東2丁目旧雨竜通の角へ引移った。資生館と称された。これが学校の元祖。(後略)
【資料2】明治36年4月創成尋常高等小学校保護者談話会における尾形碧医師(元資生館生徒)の発言
資生館ノ発端ハ明治3年12月24日、南1条西1丁目ニ仮校舎ヲ設ケテ開設セリ。(中略)明治4年10月、北1条東2丁目ニ移転セリ。(後略)
開校から30年以上経ってからの元生徒の思い出話や、50年以上経ってからの新聞記事が信用できるかという問題に目をつぶるとしても、これらの資料からは「26日」がどこから出てきたのかわからない。
そこで、札幌市が公式に編纂した『新札幌市史』で調べてみた。年表には明治4年10月26日「札幌開拓使庁、資生館を開校」とある。出典は463『札幌区史』と2029『創業守成 創成小学校教育の百三十年』である。後者は創成小学校130周年の記念誌で、『創成百年』の内容にその後の30年分を付け足したものだから、上で見たとおりである。では『札幌区史』を見てみよう。
古い記録に「26日」は出てこない
明治44年(1911年)発行の『札幌区史』には次のようにある。
資生館は札幌教育所の嚆矢なり。明治3年12月24日、島判官造営の本陣内に仮校舎を設け、(中略)移民子弟の教育を開始せしが、4年10月、今の北1条東2丁目に移転し、初めて資生館と称し(後略)
ここには26日とは書いていないので、『新札幌市史』の年表の日付は『創業守成 創成小学校教育の百三十年』だけに拠っていることになるが、その内容は『創成百年』と同じだから、結局元に戻って根拠不明ということになる。(ちなみに『札幌区史』のこの箇所は、『創成百年』でも引用されている尾形発言に基づいて書かれているらしい。というのも、山崎長吉『札幌教育史 上巻』24頁によると、『札幌区史史料』(函館市中央図書館蔵)に尾形発言が含まれているからである。)
もう少しさかのぼって、明治18年(1885年)発行『開拓使事業報告 第4編』ではどうか。
〔明治4年〕10月始テ学校ヲ興シ資生館ト称ス(後略)
やはり「10月」としか書いていない。このように、古い記録には「26日」は出てこないのである。札幌市中央図書館にも問い合わせて調べてもらったが、結局「26日」の根拠はわからなかった。
ついでに言うと、中央創成小学校の校歌(明治42年制定)も
御代の恵の露ふかく 学の柱つき立てし
その年月をかぞふれば 明治四年の十月
月のうちにも日をえらび 始めてこゝに開かれし
愛と情の充ちわたる 教の庭のうれしさよ
というわけで、年月は出てくるが、月のうちにも選ばれたという日付は出てこないのであった。
創立40年記念式
いつから10月26日が記念日になったのだろうか。『創成百年』を丁寧に読んでいくと、明治43年(1910年)10月26日に「新校舎が完成し落成式と創立40年記念式が行なわれた」(62頁)とあり、同日の『北海タイムス』でもそのことが報じられている。(現代の感覚では39周年だが、当時は創立の年を1年目として数えるのが普通だったようだ。)
そしてこれより前に、10月26日を記念日として祝った形跡はない。
少しさかのぼって、同年8月21日『北海タイムス』に、次のような記事がある。
中央創成校と松本判官
当区に初めて学校の設立されしは明治4年10月にして旧雨竜通今の北1条東2丁目の角に設けられ資生館と名けたりしが翌5年11月同館を廃し教則を改め札幌学校と称し8年更に雨竜学校と改称せり(中略)明治9年時の大判官松本十郎氏は(中略)自ら千金を献じて札幌に一の完備せる模範小学校を設立せん事を要望せり此に於て乎開拓使は(中略)校舎を北1条西2丁目に新築し第一小学校と命名せり之即ち現今の中央創成小学校の濫觴にして同校の創始に当り松本判官の功与って力ありしは言を俟たず故に今回同校全部の改築完成したるを以て来る十月中紀念日を卜して盛んなる落成式を挙行する筈にて其れまでにはぜひ運動場に松本判官の肖像油絵を掲ぐべく目下夫々手配中なりと
太字で示しておいたが、「十月中紀念日を卜して」とある。「卜す」というのは、文字通り占うわけではないと思うが、よい日を見繕って決めるということだろう。そうすると、この記事が出た8月21日の段階ではまだ日取りが決まっていなかったように読み取れる。
10月に記念式を開くことは決まっていたとして、なぜ26日が選ばれたのか。ここからは私の想像である。上に引用した記事に、第一小学校の建設資金として松本十郎が献金したことが書かれている。これに関連して、『開拓使事業報告 第4編』を見てみよう。
〔9年〕開拓大判官松本十郎金千円ヲ義捐シ官其不足ヲ補ヒ新ニ校舎ヲ築キ5月成ル(中略)26日開校是ヲ公立第一小学校ト称ス(後略)
つまり、第一小学校の開校が明治9年(1876年)5月26日なのである。このことは『創成百年』にも書かれていて、当日は松本判官を迎えて盛大な開校式が開かれたとのことである。先ほどの新聞記事に「松本判官の肖像油絵を掲ぐべく目下夫々手配中」とあったが、これは第一小学校の建設に出資した人物を称える趣旨だろう。それで、第一小学校の開校日にちなんで、26日を選んだとは考えられないだろうか。
「記念日」から「できた日」へ
時代が下り、大正9年(1920年)10月26日には、中央創成尋常高等小学校と西創成尋常高等小学校で、それぞれ創立50年記念式が開かれた。当日発行の中央創成尋常高等小学校『創立50年記念帖』所収「本校沿革の概要」は、次のように始まる。
本校創立ノ淵源(資生館創設)・・・・・・10月26日紀念日
明治4年10月、旧雨竜通(北1条東2丁目)ニ開拓使立資生館創設サル。
10月26日が記念日として定着したらしいことが見出しからわかるが、本文には日付が入っていない。この段階では、10月26日に開校したとまでは明記していないから、微妙な所で踏みとどまっている感がある。
さらに時代が下り、昭和35年(1960年)10月26日には、中央創成小学校と西創成小学校で、それぞれ開校90年記念祝賀会が行われている。このときの中央創成の祝賀会プログラムには、次のような「お祝いのよびかけ」が掲載されている。おそらく児童たちが朗読したのだろう。
明治4年。(中略)時は、10月26日。わたしたちの、学校が生まれたのだ、
その名は、資生館。(後略)
同年12月発行の西創成小学校『開校90年記念 西創成』にはこうある。
1871年(明治4年)10月、いまの北1条東2丁目に、はじめて学校をたてました。これが西創成小学校のはじめで、そのころは、資生館という名でよばれました。10月26日の開校記念日は、この資生館ができた日です。
こうして、10月26日は、いつの間にか「資生館ができた日」になったのである。