美しい言葉、言葉は芸術だ
言葉は芸術だ。言葉はその人の思考や性格を表す。
同じ思いを抱いていても、どのような言葉を使ってそれを表現するのか。言葉はその人自身を映しだす。人は自分なりのやりかたで、自分なりの言葉で思考や感情を伝えている。だから、言葉はその人独自の”芸術”なのだ。
芸術というと、なにか具体的な芸術作品そのものであったり、芸術家などプロの人たちが作っているモノをイメージする人が多いだろう。しかし、言葉も一種の人間のアートであると考えるとき、それはその人にしかできないもの、その人そのものと同等のものなのだ。
私の周りには、大学時代からずっと言葉を大切にしている人たちが多かった。正確に言うと、そういう環境に無理やり飛び込んだ。
文芸サークルではみずから息をするように「書く」人たちばかりであったし、研究の世界でももちろん言葉を対象にし、言葉によって書かれたものを入念に読みこんでいる人たちに囲まれてきた。書くだけでなく、言葉の使い方、言葉との向き合いかたが丁寧で、弁がたつ人ばかりだった。
「この人の言葉の使い方はすごい」と初めて思った人がいた。その人は今も第一線で活躍していて、私は人を見る目があったのだと我ながら感じているのだけれど、やはり言葉を丁寧にしている人は思考もわかりやすい。そしてそこに、上品さがある。
大学院に進学してから、言葉との向き合いかたはますます磨かれる、とそう簡単にはいかなかった。20何年も生きてきたなかで、接してきた言葉で、読んできたものの影響を受けている私の持つ「言葉」はとても頑固で、とても周りの人たちに敵わないことを悟った。しかし学位論文を書き終えたとき、言葉に対する自分のスタンスが当たり前のように変わっていることに気づいた。それは、研究しているときにも気づかなかったことだ。全然ダメだといつも思っていた。
確かに何年もかけて研究し、本と、作品と、そして人と、出来事と向き合っているわけだから、何も身についていなかったら困るが。それでも、自分にとって「言葉」がどのくらい大切なものなのか、言葉に対する自分の考え方がここまで変わっているとは思っていなかった。研究室のメンバー、同期、先輩、後輩、先生方そして学部時代から変わらずお世話になってきた多くの外部の(他大学の)先生方と学生の方々のおかげだ。
それまで、いつもやってもやってもいつまで経っても成長しないと考えていた。当然だ。自分では自分の成長が目に見えるはずがない。成長はいつでも後になってから気づける結果論だ。
研究の世界を通じて、言葉に対する私の感性はますます磨かれていた。人が話しているとき、書いているものを読むとき、その人が使う言葉でその人自身がどのような人なのか、私たちはある程度推測できてしまう。もちろん言葉だけで決めつけるのは良くないのだが、それほど「言葉」は人間にとって核になるものなのだ。
美しい言語表現で言い表すと、その内容が相手に伝わりやすいというだけではない。言葉そのものの魅力に気づかされる。
そして、私がいま思うことは、昔の自分であればきっと思いもしなかったこと、つまり使う言葉を意識的に変える、あるいは理想的なものに近づけていく努力は必ず少しずつでも身を結ぶということだ。
私はもっと美しい言葉を使えるようになりたいし、美しい言語表現を自然と引き出すことができるようになりたい。それは裏返せば、そういう言葉を自然と使えるような美しい人間になりたいという気持ちと隣り合わせにある。
ただ言葉の表面のみで判断するのではなく、また、ただ言葉だけで中身の伴わない言葉を使うのではなく。むしろ言葉にしっかり重みを持たせてその言葉を使えるようになりたい。
私がnoteを書いているのは、ただ書くことがやめられないから。でも同時に、もっともっと言葉を使えるようになりたい、言葉の美しさを理解できるようになりたいからだ。
曖昧な言葉では思考も曖昧になる。だからと言って、言葉が完全に自分の思考やものごとを言い表すことができるというわけではないが、それでも名状できないものと諦めるのではなく、人間に与えられた芸術、言葉というものを余すところなく使えるようになりたい。文章力に磨きをかけたい。