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ねこ

※死んだ猫の話です。そういう話を読みたくないひとは読まないでください。

 ねこが好きなのだ。
 くたくたもふもふ。ぐねぐねもする。
 わたしのねこはもうしんだけど、巡り会えてよかったと思っている。
 これは一般的な「ねこ」という動物ではなく、わたしのねこの話。

 ネガティブな思考回路なので、悲しい思いをしたら、何故、と考えてしまう。悔やむというより、ぐるぐると「なぜ……」と考える。
 納得したいのかもしれない。のみ込めないことばかり残っていく。
 その性格は昔からでなにひとつ変わらない。だけどねこの場合はちがった。

 ねこがいつか自分より先に死ぬのはわかっていた。
 愛は失われるから不要、とは、わたしが知っている限りでは北斗の拳のサウザーの台詞である。ものすごくよくわかるな、と思っていた。
 失うものは最初から持たなければいいのである。

 ねこが先に死ぬのはわかっていたけれど、わたしはそのことについてあまり深く考えなかった。
 死ぬひと月ほど前に自分とねこしかいない実家に自分のではない血が滴り落ちていて、慌てて近所の診療所に連れて行き「いつ死んでもおかしくないです」と言われたときも、とうとう来た、とは思ったものの、あまり深く考えていなかった。
 なんといってもその二週間ほど前に母が亡くなっていたので、まさかたてつづけに死なないだろ? そんなドラマや小説じゃあるまいし……パームのカーター・オーガスじゃあるまいし……と思っていた。
 だけど、まさにカーター・オーガスと同じように「あっちで何か楽しい宴でもあるのか?」と思ってしまった。
 ねこは診療所に行き始めてひと月足らずで死んだ。母の死後、ひと月半ほど経っていた。

 ネガティブな自分だから、ねこが死んだら、飼わなければよかったと思うと予想していたけれど、ぜんぜんそんなことはなかった。
 ねこの可愛さや勝手なところや、それでいて健気にも感じたところ、いろいろな面を何度でも思い出した。可愛かったなあ。可愛かった。今でも最高に可愛い。洋猫混じりっぽい雑種、長いしっぽ、歳を取るごとにどんどん白髪がまじってきた黒い毛並み、黒豆のにくきう。
 以前は「このねこがしんだらあたらしいこを飼おう」と思っていたけど、経済事情や環境の問題もあるが、わたしのねこはあのこだけだな、と思う。
 何度もこんな思いをしたくない。

 たくさんの人間と関われば、個々との諍いや別れは、全体数ぶんの一になるから、味わわされる痛みや悲しみもやわらぐのかもしれないと考えたことがある。
 ねこだって、たくさん飼えば、何度しなれても、その悲しみはやわらぐのかもしれない。それは、わからない。理屈で考えることができるというだけで。

 もっと撫でればよかったとか、可愛がればよかったとか、後悔はほとんどない。最期の十日間、ずっとそばにいたからかもしれない。
 玄関に置いてある猫用トイレから出られなくなったので、わたしは玄関の廊下で寝た。真夏だったのでできたことだった。死ぬ直前に思いついて、トイレを居間に入れて、やっと涼しさを味わえるようになった。玄関にクーラーついてないです!(しかも吹き抜け。岐阜の寒さを舐めくさった構造の家である)
 ことあるごとに撫でて、「もうちょっとおって(もう少しいてください)」と何度もお願いした。だけど、苦しそうに噎せるので、「でも、えらいなら、いいんだよ(だけど、つらいなら、いいんだよ)」ともつけくわえた。(名古屋弁丸出しですまない)
 20歳まで生きてくれたらいいなと思っていたけれど、18歳になれずに死んでしまった。だけど、長生きをしてもあんなふうに苦しみつづけるんだったら、とは思う。

 死ぬ前日、食べさせてくださいと言われていたぶんの療法食をなんとか食べきったら、鳴き声が出た。そのときまでほとんど出なくなっていたので、元気になったと思った。だから少し無理をさせて、その日も食べさせた。その数時間後に、苦しそうに噎せ始めて、診療所に連れて行く準備をしているうちに亡くなってしまった。
 動かなくなっているので寝ていると思い、起きたら連れて行こうとしたのだけど、いつもと違って尻尾がだらんとしているので、慌ててさわったら、もう起きなかった。自然と声と涙が溢れた。抱き上げるとねこはびくっと体をふるわせて漏らし、服が汚れた。まだ生きている。そう思いたかった。

 号泣しながら診療所に連れて行って、確認してもらった。もともと重いねこだったけど、だらんとして力がなくなった亡骸を抱っこするのはたいへんだとわかった。亡くなりました。そう言われて、連れて帰った。入るビニール袋をさがした。死んだねこは体を丸めることができなかったので、なんとかして丸くして袋に入れ、用意してあけておいた冷凍庫に入れた。

 生まれ変わりとか毛皮のお着替えとか、ほかのひとが信じるのを否定したいわけではない。だけど自分はそういうものに縁がないと思っている。だから、この別れは二度と会えない別れだと考えている。
 二度と会えないなら、その別れを引き延ばしたい。わたしのねこがいたことを忘れたくない。この頭はいやなことも何もかもすぐに忘れてしまう。
 忘れたくなかった。
 わたしにとっては、可愛い、可愛いねこなのだ。
 燃やしたら、消えてしまう。消えてしまったら、忘れるだろう。
 可愛いと思ったこともなでなでもふもふしたことも、何もかも、忘れてしまう。お別れよりそれは悲しいと思った。
 だから、前もって友人に教えてもらっていた業者に送って、処理してもらった。しばらくまだ一緒にいられるように、してもらった。

 今でもわたしのねこは実家の、アクリルケースの中で、わたしの帰りを待っている。
 わたしが死んだら、どこかちゃんとしたところで燃やしてもらって、同じ骨壺に灰を入れてくれ、と頼んである。

 実家の居間には両親の遺骨の前に、わたしのねこの剥製が、アクリルケースに入って、留守番をしてくれている。
 風呂上がりに手をアルコール消毒して、そっとアクリルケースをあけて、その背を撫でる。あたたかくはないけど、生きていたときと同じ毛並みだ。
「もうちょっとおってね」とお願いする。
 たぶんあと10年、せいぜい20年もすれば諦めはつくのだ。
 それまで撫でさせてほしい。

 もう二度とねこは飼わないので。
 わたしのねこはあの子だけなので。

 そして何度も何度も、ねこが出てくる話を書くだろう。
 くたくたもふもふしているねこを書く。たぶん何も書けなくなるまで。