【キテレツ!】きっと参考にならない友達のつくり方とその親友について
これは大学時代からの親友と出会った時の話。
思い返せば、彼女との出会い方はかなりキテレツだったのかもしれない。
大学入学式当日。
父の運転で、母、私の3人で入学式へと向かった。
会場に着くと、父と母以外、全員知らない人たちだった。
入学式なんだから当然だろ、と思うかもしれないが、今のご時世私みたいな人間の方が少数派なんだと思う。
世はSNS時代。
今となっては言うまでもないが、その当時も全然SNSが普及しまくっている社会であった。
周りはみな、Twitter等を駆使して入学前に”友達”作りをしていた。
進学先が決まると、SNSの自己紹介欄に「春から○○大」とアピールする人がやたら増え、多分そういう高校生同士がbotか何かで繋がって、”友達”をつくっていくというシステムが普及していった。
純粋な友達探しというかは、”入学式に一緒に行ってくれる人”探しをしている感じがして、私は少し苦手だった。
たしかに全く知り合いのいない場所へ飛び込むことは、誰しもが不安なことである。
また、これだけSNSが普及しているのだから、文明の利器に頼ることは当然のことなのだと思う。自分だけが波に乗り遅れてしまうのではないかと、焦る気持ちも分からなくはない。
しかし、そんな”友達”はとても一時的なもの。
各々違う友達をつくり、用済みになれば疎遠になっていく。
そんな果てが見えていたから、自分にはそのやり方は合わないだろうなとひそかに思っていた。
その場しのぎな関係性は双方に良くない。
同じ高校から進学する人と一緒に参列するという手段もある。
しかし、私と同じ大学へ進学する人は、認識していた限りで一人だけ。
一緒に行こうなんて話にもならなかった。
さて、本当にひとりだ。
正真正銘「ぼっち」参戦。
私にとっては今日がスタート地点。
まあいずれ友人は出来るだろうと焦る気持ちはほとんど無かったが、いざ入学式を迎えると友達作りに向き合わなければという自覚が湧いてきた。
大きなホールで式典を終えると、学部ごとの説明会があり、その会場へ移動する。
式典の時は何も思わなかったが、この移動中にある感情が芽生える。
(まあとりあえず誰かに話しかけてみるか~~~)
そう思った私はどうしたかというと、
「はじめまして!あのすみません、何学部ですか!?」
☆彡無作為に選んだ人間に話かけてみました☆彡
文字通りの「無作為」。
数学で確率の勉強をする時にしか見ないあの「無作為」。
まあ厳密に言うと、自分と同性を意識的には選んではいたと思うが、それ以外多分何も考えていなかったかもしれない。
99%の直感で近くにいる人に話しかけて見た。
話しかけられた本人も
「え!?私に話しかけてる???」
みたいな顔をしていた気がした。
あまりの唐突さに周囲も少し引いていたのを覚えている。
話しかけられた側は当然だが、こんな無茶苦茶な話しかけ方をしておいて、こちら側としても一丁前に緊張していた。
今思えば、度胸100点、声の掛け方-30点と言ったところだろう。
しかし、ここでミラクル。
話かけた相手は同じ学部で学科まで一緒だった。
そして、その後の説明会に一緒に参加することもすんなりOKしてくれた。
説明会に参加したあと、帰りにLINEまで交換し、翌日からのオリエンテーションに一緒に参加することになった。
こんな風に何をしたかまでは覚えているのに、どんな会話をしていたかは全く持って覚えていない。
覚えていたら思い出話に花を咲かせられるところだったのに、それができず少し悔しい。(急な感想)
そこからというもの、徐々に仲を深め友人となり、晴れて親友となった☆彡
そんな友人と私だが、タイプがまったく違う人種である。
例えば、彼女は時間に割とルーズなタイプ。
待ち合わせの時間に私より先に着いていたという記憶がまずない。
一方で私は、時間にきっちりしたいタイプ。
過去、自分と同じような人種とばかりつるんできた身としては、それを受け入れるのに時間がかかった。
正直なところ、待ち合わせに遅れて来る友人にムッとしてしまうところもあった。
今までの自分だったら「例え仲が良くても、時間を守らないなんてもってのほかだ!」とか思って、このままフェードアウトしてしまう可能性もなくはなかったと思う。
しかし、彼女と過ごす時間は、それを超えてきてしまう楽しさや居心地の良さがあった。
会って話すと全て「楽しい」という感情に塗り替えられてしまう。
相手の好きとはいえない点に目が行ってしまうことはあっても、こんな風にその人の好きなところに焦点を当てられることがどれだけ幸せなことなのかを実感できれば、自然と目をつぶることができた。
一方、私の"きっちり"も言い換えればただの神経質なので、自分でも厄介な性格だなと思うことがある。
例えば、旅行先で計画通りに進まないことがあったり、何かアクシデントがあった時、私は分かりやすく混乱する。
そんな時、友人が持ち前のその寛容さで事態を受け入れ、いつも助けてくれる。
散々”ルーズだ”と言ってきてしまったことが申し訳なくなるくらい、その心のゆとりや寛容さに救われてきた。
「ここが好きになれないかもしれない」というネガティブな感情を一度飲み込んでみたことが、今後の人との関わり方を変えてくれたような気がする。
お互い好きなところは尊重し、お互い不得意とするところは「時間が守れないだけ」「この人は神経質なだけ」と割り切れれば、どんなに良い関係を築くことができるか。
欠点を見て相手を嫌いになってしまうこともあるが、そんなのは勿体無いことだと思う。
「こんなに気の合う友人とはなかなか出会えない」と思えれば、より心豊かに生きられるのではないか、と思った。
そこからというもの、友達の人種は多種多様になった。
この友人との出会いは、人脈の幅を確実に広げてくれた。
人間同士の違うところを許せるようになったのは、これがきっかけだと思う。
「人間はみな違う。だから受け入れて協力していく」
当たり前すぎるが、案外理解できていないかったことだと感じた。
そして、この記事を書いたタイミングで、当時話しかけられたことをどう思ったか改めて聞いてみた。
友人「え~、度胸すごいと思った~~~~」
とのこと。聞くほどでもなかった。
自分とは違うタイプの人種の友達が出来たこと。
また、そんな友人とお互い社会人になった今でも毎年予定を合わせて旅行へ行けていること。
自分の選択が結んでくれたご縁や学びを大切にしていきたい。
無作為ではあったけど、自分で選んだ友達。
全く知らない状況で話しかけたのに
自分の選択に間違いはなかったと思う。