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祖母の話

母方の祖母が大阪の介護施設に入居して5年以上になる。
負けん気の強い性格は健在のようで、福井で静かに暮らしていた頃よりもいきいきとして楽しそうだ。

今年の正月に会ってきた母の話によると、元気ではあるのだがここ1年でかなり認知症が進行しているようで、もう自分の娘のこともよくわかっていないらしい。
息子が2人に娘が5人、孫は私含めたぶん14人。
そんなにいたらわからなくなっても仕方ないか。
最後に会った時も私のことはなんとなく覚えているようだったが、東京の芸術系大学に通っていることになっていた。
その時はまだ京芸を目指す受験生だったのでどこでそんな思い違いをしたのかと不思議だったのだが、のちに本当に東京の芸大に入るのだから侮れない。

もし世界が本当に祖母の思っているままの姿であれば、どんなものだろう。忘れてしまったものは、初めからなかった。
大家族の母として単身赴任の夫を待っていた広い家のこと、母に教わった洋裁、北陸の肌を刺す寒さのこと、孫の結婚式で父親が戦死したグアムの海を見たこと、それらのどこまでが今の小さな部屋に残されているのだろう。

説得に遣わされた私に、あれだけ「お父さんが死んだこの家で最後まで過ごしたい」と言って聞かなかったのに。
もう最初からこの部屋で生まれて死んでいくような、そういう納得と幸福。他者が生きている現実が己のそれと同じではないことが、限りなく近くにいた家族の姿をして迫ってくる。

(2024年1月29日の日記より)


5月に帰省した際に、母と弟、大阪の叔母と一緒に祖母に会いに行った。
相変わらず部屋には自慢の書道や塗り絵、折り紙の作品がびっしり飾られていた。
祖母は確かに昔から手先も器用で達筆だが、それにしたって施設の職員さんは相当な褒め上手なのだろう。
「絵も字もここじゃ私が一番」「『朝の体操』じゃつまらないでしょ?私が『さわやか元気体操』にしたらどうかって言ったらみんな使うようになった」などと嬉しそうであった。
私が着ていたド蛍光ピンクのシャツをなぜか絶賛していたし、しまむらで買ったピンクの部屋着をプレゼントしたら喜んでいたのは少し意外だった。

「おかあさん、自分の子どもたちの名前上から順番に言うてみ」
試し侮るようでなんとなく嫌だったが、祖母の状況を一番わかっている叔母なりの考えだろう。
「そんなん自分の子どもくらいわかるわ!孫はちょっと怪しいかもしれんけど……」
そう豪語する祖母の口から上がったのは一番目の叔母、二番目の叔父、頻繁に会っている大阪の叔母、その後は雲行きが怪しくなり、ついには従妹の名前が混ざったり。結局すぐに名前が出てきたのは3人だけだった。
しまいには祖母からすれば5番目の娘であるマトゥラーのママンのことを「マトゥラーのおかあさん」と呼び出す。これにはママンも爆笑しつつ少し悲しそうであった。

一時期祖母の家に居候していた従妹のお姉ちゃんの名前が出てきたり、娘の認識が孫の母だったり。
たぶん祖母の中の子供たちの記憶は、私が小学校に入るか入らないかくらいの頃、毎年孫を連れて帰ってきて、てんやわんやしていた頃のことが大半を占めているのだろう。
それは幸せなことだと、私もときどきあの時に戻りたいと思う。

「楽しそうなのはいいけど、お母さん昔からあんなに勝気やったっけ」
帰りの車の中でママンが言っていた。
「人に頼らない群れない一匹狼なとこはあったけど、そういえばPTA会長とかはやってたか」
ママンから見た、祖母の母親としての姿についてちゃんと聞いたのは初めてだった。
少しドキッとした。

(2024年11月11日の追記)

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