RADWIMPS『有心論』と衒学的態度についての試論
RADWIMPSの『有心論』という曲にこのような歌詞がある。
誰も端っこで泣かないようにと君は地球を丸くしたんだろう?だから君に会えないと僕は隅っこを探して泣く
先日、5年ぶりくらいにこの曲を聴いて2つ目のサビにこの歌詞が出てきたとき、衝撃だった。野田洋次郎が致命的な間違いを犯していると思ったからである。全体の歌詞の流れを見てみよう。しかし、歌詞の解釈という行為自体が不安定であることを比喩の仕組みからして逃れ得ないのであるが。
『有心論』は、自信の無い「僕」が「君」に承認される1番。「君」のことを多様な表現で書き記した2番。「君」がいなくなったので息を止めてみると「君」が自身に内在していることに気づき、今日を生きることを続けると決意する大サビ。大きく分けると三部に出来るだろうか。正直自信はないが、たぶんそれなりに的を射ているとは思う。私は音楽を聴くときに歌詞も一緒に聴いているわけではないので、歌詞だけに注目することに慣れていない。ご容赦いただきたい。
歌詞の性格上、つまり音韻と意味を合わせるという性格であるが、それゆえに正確な意味を把握することは不可能である。しかし『有神論』の歌詞がストーリーになっているのは明らかである。端的に言って、「僕」は「君」と離れても「君」のことを想っているよ、ということだろう。
さて、2番の歌詞であるが、これは創造主を「君」と見立てたうえで地球を丸くした理由を「誰も端っこで泣かないように」したからであると綴っている。非常にロマンティックで詩的な表現である。本当にそうであってほしいと思う。しかし当たり前のことだが、地球が丸いのは重力のせいである。
おそらく前文でこの記事を閉じようとした人は多いだろう。あなたの気持ちは理解できる。私もそのようにするだろう。しかし私は比喩表現に科学をかざそうとしているのではない。私も文学部生の端くれとして、柄谷行人の批評を追う人間としてそのようなことは決してしない。比喩には「比喩の論理」で、同じ土俵で戦わなければならないことは重々承知している。もう少しお付き合い頂ければ、『有神論』の致命的な間違いと私が標榜する「衒学的態度」が見えてくるはずなのだ。
地球が丸いのは重力のせいである。惑星の形成過程については私が詳しくないため、各自参照されたいのだが、下に簡単に記す(簡単に言ったことはほとんどの場合間違えていることに留意されたい)。
分子雲という他よりも濃い域が、自身の重力で押しつぶされて密度を増していくことで星の素が出来る。どうやら回転が重要なようだが知らない。星の素は周囲にあるガスとほんの少しのチリを巻き込んでいって微惑星となる。微惑星同士は引力により衝突しあい合体する。
比較的に大きいものほど重力は強いので、大きい微惑星に周囲のものは引かれる。大きいものに小さいものが引かれることを繰り返すと、最初はサイズの違いが少しでも、大きいものの方が急速に成長する。ゆえに大量に存在していた微惑星は少数の原始惑星へと姿を変える。
原始惑星同士は互いの引力によって互いの軌道に影響を及ぼしあう。やがて彼らは衝突合体して成長する。原始惑星同士の距離が十分に広くなると軌道に影響が及ぼされず安定する。木星などのガス惑星はサイズが大きすぎてガスを自らの構成要素としてとりこんでしまうらしい。大気とガス惑星の違いがよくわからないのであるが、たぶん引き込まれ方の違いなのだろうと思う。大気圧とガス惑星。何が違うのか分からない。ちなみに氷惑星は太陽から遠いために、温度が低いことと形成が遅くて取り込むガスが少ないから出来る。これは知っている。物理は本当に分からないことしかない。
閑話休題。原始惑星の衝突合体が落ち着くのは何故だったか。惑星間の距離が十分に取られたからである。つまり、惑星はお互いに十分な距離を保つことで(軌道上に自身以外の惑星がいなくなる)ことで惑星足り得るのである。惑星が丸い理由については先に述べたように重力(求心力)によってである。これらのことから次のように「表現」出来るだろう。つまり、「地球が丸いのは孤独ゆえである」と。
もし、地球を比喩に用いるならば惑星の定義からして、「孤独」という表現は排除できない。しかし野田洋次郎曰く、「地球が丸いのは、誰も端っこで泣かないように」と。また、地球の形成過程曰く、「地球が丸いのは孤独ゆえである」と。相反しあう。『有神論』では「地球の端っこ」という孤独に泣く場所を「君」が消したのであった。注意したいのは、もし創造主(君)が「僕」の誕生以前に地球を丸くしていたのであれば、時間の流れからして「僕」には地球が丸い理由が分からないはずだということである。水中で生活する魚に「水中で生活する気分はどうですか」と尋ねるのと同じで、それが無い仕方を知らない存在者にそれが無い状況を尋ねてもわかるはずがない。「僕」は地球が球体でない状態を知っている。しかし、地球は球体である。ゆえに『有神論』の「地球」は「天体としての地球」を表していないことが分かる。それは「比喩としての地球」である。
当たり前だ、歌詞は比喩なのだから、と言いたい気持ちはよくわかる。私は何が言いたいのか。それは、重要なことは必ず否定の形で、取り消し線によって示されるのであるということである。これを私は「衒学的態度」と呼ぶ。これは主に比喩によって示されることが多いと考えている。
誰も端っこで泣かないようにと君は地球を丸くしたんだろう?だから君に会えないと僕は隅っこを探して泣く
再び引用して見ると「僕」は無いはずの「隅っこ」を探している。一方で「僕」は地球に端っこが無いことを、それが球体であることを知っている。「僕」の行動は矛盾している。何故か。それは「衒学的態度」ゆえである。
衒学とは何か。衒という字は「奇をてらう」の「てらう」であるが、「衒学」をgoo辞書で調べると、
学問や知識をひけらかすこと。ペダントリー。
このように出てくる。わざと難しく表現したり、関係の無い分野の知識を持ち出したりすることである。個人的には「蒙昧」とは異なると考えている。では取り消し線で示すことの何が「衒っている」のだろうか。比喩の性質から考えてみよう。
長くなりすぎたので記事を分けることにする。次の記事では比喩の性質がドーナツ型であることから「衒学的態度」が比喩の一形態であることを示そうと考えている。
自分用に今後の課題を書き留めておく。「SNSでの感想表現について、言語を逃れられない写真、美術館とレトロ写真についての考察」「私たちは言語で表現しなければならないのか、言語表現によってそれらから除外されたもの達への先験・潜在的有責について、衒学的態度による解決と文章の本性が偽であることの証明」「対話と会話について、他者〈顔〉との出会い、内田樹とレヴィナス」