代理表象としての「地球」―試論2

 前回、私はRADWIMPS『有神論』において「地球」という表現が、「創造主の優しさ」の比喩として用いられていたが、そもそも「地球」の生成過程を考えれば、それは「孤独」の比喩として用いた方が妥当なのではないか、ということを述べた。
 たしかに、「地球」を何の喩えに用いようが野田洋次郎の勝手ではあるが、私が思うに、彼はわざとねじ曲がった比喩を用いたのだ。なぜなら、言葉の本性は虚だからである

具体的には村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭文が分かりやすい。ここから始めよう。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
英訳もあげておく。
「There’s no such thing as perfect writing. Just like there’s no such thing as perfect despair.」

この一文は明喩である。「完璧な文章は、完璧な絶望が存在しない(ことと同じ)ように、存在しない。」英訳では、「完璧」は「perfect」と訳される。それは、「strictly(厳密に,正確に)」ではなく、「per-(完全に)」「-fect(us)(作られた)」すなわち「完全な壁(ヘキ、古代の威信財)」である。
 しかし、私たちは「完璧な文章」を、「完璧な絶望」を知っているだろうか。たとえば〈欠け〉の無い読書感想文を書こうとするとき、感想文を書くために白紙の原稿用紙に筆を走らせるまさにその瞬間、読書体験は回想されて、読書体験の体験の感想を書くことになる。書く前に私に現象していることは私が書く白紙の上に書かれたものと同一ではない(ここでは、『書くこと』に3つの様態があることを意識して欲しい。つまり、書く前書く書かれた、である)。だから欠けている。「書くこと」はその行為自体が完璧ではない。だから「完璧な文章などといったものは存在しない。」
 「完璧な絶望」はどうだろうか。私たちが「完璧に」つまり〈欠け〉が無く「絶望」するとき、そこでは「希望」すら〈欠け〉ていてはならない。しかし「希望」が〈欠け〉無ければ「絶望(望みが絶たれた)」ではない。矛盾している。ゆえに「完璧な絶望は存在しない」。
 では『風の歌を聴け』冒頭の一文はいったい何を言っているのか?
 結論から言えば、これは「書くこと」が宿命的に背負った背理を示す。背-理(理に背く、誤った推論)、「書くこと」の一切は、彼の〈何かを表現する、伝える〉という目的をそもそも達成できない。「書くこと」では、あなたは伝えたいことを伝えることはできない。「書くこと」はすでに失敗している。

 それでは何故、村上春樹は小説を書くのだろうか。あるいは人々は物語を、メッセージを受け取ることができるのか。
 ここからの詳細は、レヴィナスの『存在するとはべつのしかたで』を参照されたい。できるだけレヴィナスの原著をあたるべきだが、内田樹と熊野純彦による手に入りやすい優れた注釈書があるのでそれを読めば良いと思う。それらは記事末尾に文献一覧で示しておくことにして、ここでは現時点で私が考えていることの結論を分かりやすく述べることに注力したい。

 村上春樹が、人々が言葉によってメッセージを贈ろうとすることに、そしてそれらが受け取られることに絶望しないのは、そのことがある意味では成功しているからである。『風の歌を聴け』冒頭文は、「書くこと」の不可能さを示しながらも、それを可能にできる(かもしれない)方法を提示している。それは「~ではない」という話法である

  前に「言葉の本性は虚である」と述べたが、まずはここから見ていこう。ソシュールは「私たちの思考は言語によって規定されている」と主張した。言語論的転回である。有名な話だが、日本では「蝶」と「蛾」は別の虫だが、フランスではどちらも「パピヨン(le papillon)」と呼んで区別しない。だからフランス人は蝶と蛾の区別がつかないという。もう少し具体的な話をしよう。

色は感覚である。物体そのものに「色」がついているわけではない。だから私たちが例えば「そのリンゴは赤い」と言うとき、「そのリンゴが赤い」わけではなく、「私たちがそのリンゴを赤いと感じたから赤い」と言っているのである。そして色は連続している。帯として色が表されるとき、紫から赤へ、そして両端より外には私たちには分からない色が広がっている。環として表されるとき、あたかも色は循環しているように思える。さらに、暗すぎる緑と暗すぎる青は黒色と見分けがつかないときもあれば、白色は「黄みがかった」「青みのつよい」と区別されるときがある。「色」は曖昧で、たんに「赤」と言ってもそこには範囲がある。だから「赤」は「広がり」を持っている。広がりを持つのは「色」だけだろうか?

 「木」はどうだろう。私たちが街路に立つ何かを「木」と呼べるのは何故だろうか。そして、隣り合って立つ其れらを「木々」であると認識できるのは何故だろうか。それは「木」という言葉がある程度の「広がり」を持つからである。私たちが隣り合う「木」たちを区別しながら、似たようなものだとしてあるまとまりで把握しているならば、「木」は「『木』と呼ぶべきもの」の集まりとして一定の範囲を指すのだと言えるだろう。

 ごく個人的な言葉への理解の仕方としては、私は言葉を「ドーナツ(同心円)型」だととらえている。あるいは「中心の無い球体」だとも思っている。なぜなら、言葉はそれ自身を指し示す言葉を欠いているからである。どういうことか?再び「木」という言葉に登場してもらおう。

 「木」を「木」という言葉を用いずに表現してみてほしい。いったいあなたはどのように記述するだろう。私ならば「(木とは、)大地から養分と水を吸い上げるための根という部位を地中に差し込み、葉という部位で光合成をおこなって云々」というように記述する。簡単に済ませようと思って、辞書の「木」の項をひけば、そこでは「木」を使わずにそれを説明する文章が並んでいる。少々回りくどい言い方をしてしまったが、つまり「その言葉を使わずに、その言葉を表す」ことは、その言葉の要素や性質を挙げていくことであって、決してその言葉を全くそのままに表しているのではない。「木」は、それ以外を用いてでは完璧に表したとは言えないのである

 それでは「木」とは何か。「木」とは、「木」である。これでは答えにはならない。問われたものと答えるものが同じでは、なにの説明にもならない。だから、〈~とは何か〉という問いは、本質的に自身の答えを内包してしまっている。だが、その答えは取り出すことが出来ない。取り出そうとするならば、その言葉とべつのしかたで表すほかはない。ゆえに私たちは否定しなければならない。そのために、〈その言葉とは、その言葉ではない〉という話法を用いてのみ、その言葉は表すことができる。(当段落は内田樹『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』を参照されたい。)

 先に見たように、「赤」という言葉はある範囲、広がりを持っているのであった。それはつまり「赤と呼び得る色」の範囲であり、その外側は「赤ではない」のである。「赤すぎる」という話法は、「その赤い色は鮮やか(あるいは明るい)であり過ぎる」ことであり、決して「〈赤〉性、赤らしさ」を示すのではない。「黄みがかった赤」や「青みがつよい赤」は、「赤」のヴァリエーションであり、しかし「赤」の変化した様態ではない。だから私たちが「赤とは、何か」と問われたとき「赤ではない」を示すほかない。すなわち、「赤」という言葉は広がりを持つがその中心を欠いているのである。

 「赤」は「〈赤〉自身」を支えとしながら、それ自身は答えであってはいけない。であるならば、「赤」は「赤ではない」もの達によって記述されるしかない。だから、「赤」という言葉は「〈赤〉自身」を中心にして「赤ではない」もの達に囲まれている。しかし、私たちが「それは赤い」と発話するまさにその時、「それの赤さ」は「それの赤さではない」ことによって表現されなければならない。それは、何度も言うように、「それの赤さ」が「それの赤さ」によって示されてしまうと無限に循環するからである。ゆえに「赤」は「〈赤〉自身」を欠くほかない。しかし、その周囲には「赤ではない」もの達が潜めいて在る。これが、私が言葉を「ドーナツ型」だという理由である。

 私がこの記事の中でレヴィナスのことに触れたのは、『存在するとはべつのしかたで』が「存在論の話法を回避して、存在についてその話法とはべつのしかたで語る」ことを題にしているからである。内田樹は、レヴィナスの三作を注釈しながら『死者と他者』で「記号が代理表象にすぎないという当の事実が記号によって代理表象される以外にこの世界に足場を持たないものが存在することを明らかにする。」(内田『死者と他者』:p.130)と述べる。それは、何かについて語ろうとするとき、「語ること」と「語られたこと」は「同じ名前」でよばれながらも後者が前者を〈前言撤回〉(同)するという仕方で与えられるのである。だから、記号が「代理表象(re-presence)」なのである

 私が『他者と死者』を読むまで考えていたことは、小説を読解するという行為が作者のコードに従いながら、ある程度の”自由”を保証されたうえで行われるならば、そのコードを大きく逸脱していなければ、全ての読解は妥当性が認められてしまうという問題であった。それは端的に言えば「読みの自由」であるが、しかし「作者の意図」を大きく外しながら、「作品のコード」には従っている「読解」は、いったい何なのか、それはどこから来たのか、という問題であった。そして、その当時(大学二年の夏頃?)にとりあえずの答えとして方法論のみ出したのだが、それが「表現」と「表現されること」と「表現者」を分けて考えること、そして先述したとおり「書くこと」を三様態に分けることであった。つまり、書かれたことは書く行為に依存するのではなく、むしろ読む行為に依存していると考えたのである。しかし、これでは「作者の意図」は考慮されず作者の同一性は担保されない。結局は原点回帰であったのだが、そこで『他者と死者』の「対話」を導入してみることで解決を得たのである。

 つまり、読書行為は「無限に生き続ける対話」である。それは「相手の欲望を欲望する」という仕方で対話されていて、しかも私は相手の(結局は私の、ということになってしまう)欲望に到達することはない。だから「無限に生き続ける」。内田は村上春樹の言う「うなぎ」とは「欲望(désir)」のことであると解釈する(前同)。

 本稿で挙げた推論の中で、特に私のオリジナリティがある箇所を挙げておかなければならないだろう。ほとんどが、レヴィナスからの借用だからである。個人的なnoteなので、引用出典明記を最低限まで控えてしまったが、「『風の歌を聴け』冒頭文の解釈」と「言葉のイメージ」以外はほとんどがレヴィナス(と内田と熊野)の応用であると思ってほしい。出典明記は追って記していくことにする。また、「ドーナツ型の言葉」に関して追記しておくと、おそらくその範囲は「ではない~ではない」(誤記ではない)の波ダッシュの部分が表現として適しているだろうと思っている。「赤」であれば「紫ではなく~目に見えない色ではない」というのが範囲の”実”の部分であろう。なぜなら、”実”の部分でさえ言葉だからである。

もともとの論題であった「有神論」の「地球」という比喩については、また次回にする。今回は、言葉は広がりを持っているが中心を欠いていることと、それ自身の代理表象であることを押さえておいてほしい。

参考文献

熊野純彦1999『レヴィナス入門』筑摩書房

内田樹2011『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』文芸春秋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?