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蟄蛇坏戸 ―へびかくれてとをふさぐ― (一)
<一>
天高く、訪れた季節の恵みを表すような美しい日だ――まさに園遊会日和。
(なんて美しいのかしら……)
陽の光を受けて、すべてがきらきらと輝いて見える。葉を赤く染め上げた紅葉にナナカマド。下生えのリンドウは濃く青く咲き誇り、少々、季節待ちの椿やサザンカの緑に隠れるようにして遠慮がちに見えるが、紫の実が珍しくも美しいムラサキシキブ。丸い葉も愛らしく黄色い花を咲かせるツワブキ。
それ以外にも多数の植物が、まとまりよく植えられているのは流石だ。間違いなく人の手によりながらわざとらしさもなく、絶妙の配置で目を楽しませる、丹精こめて整えられた庭だ。門前に飾られていた懸崖づくりの菊の鉢植えも、とても見事だった。腕の良い庭師を雇っているのだろう。
(薄の風情のあること。少しだけあるのがいいわ。暁葉が好みそうな……)
思い浮かべた友人のツンと澄ました姿に、自然と笑みが浮かぶ。咲保は結い髪の後毛を細く涼やかに吹く秋風にそよがせながら、片隅にあるベンチに腰掛け、静かにその風景の一部になる心地を堪能した。
いただく紅茶は、紅葉が映ったかのような色味で、秋の庭にぴったりだ。生まれて初めて口にする舶来の味には、最初おっかなびっくりだったが、案外、悪くない。緑茶よりも強い香気は独特で、砂糖を入れるなど予想外だったが、試してみれば、納得できる味わいだった。最初は気が進まなかった訪問だが、庭とこの紅茶だけでも、来た甲斐があったと思う。ただ残念なのは、どうやら楽しんでいるのは彼女だけらしい、という事だ。
咲保のいる縁台から箱馬車を三台ほど連ねた先では、多くの招待客が集っている。その多くが国の名士と呼ばれる人々とその関係者だ。華族のみならず、政治家や医者に銀行家、文筆家や芸術家、雑誌を賑わす俳優など、世間に疎い咲保ですらも一方的にだが見知っている面々もちらほらと混じっていて、熾盛侯爵家の人脈の広さが窺い知れた。その人々が、散策も歓談もそっちのけで一ヶ所に集まり、遠巻きにして何かを眺めていた。
(なにかの余興かしら……寸劇でもなさっているのかしらね)
何を言っているのかまでは聞こえなかったが、男性の大声が聞こえてから妙な雰囲気になった。取り巻いている人々からは、戸惑いばかりが伝わってきて、楽しんでいる風には見えない。それまであった談笑する声は、完全に消えていた。
離れた場所にいる彼女に、何が起きているかはわからない。しばらくすると、周囲を取り巻いていた人々の中から、貴婦人の数名が気分悪そうによろけながらお付の者に支えられて場を離れ、何人もの女中や使用人等がかなり慌てた様子で方々に走り去っていくのが見えた。それからさして間を置かず、呼ばれてきたらしい警備を担っているのだろう者たちが騒ぎの中に突入し、更に、女性の悲鳴が加わり騒然となった。どう見ても、ただ事ではない。
「まるお、何があったか様子を見てきてくれない?」
そばに控えていた自分の侍女に様子を見てくるように頼んだ。が、「お嬢さまをお一人にはできません」、とにべもない返事に、眉尻を下げた。咲保の家に長年仕えるこの侍女は、彼女の扱いもとても古風だ。街歩きをしている最中に前方から若い男性が歩いてきただけで、咲保を路地に押し込んで隠そうとしたくらいだ。
「でも、事と次第によっては、このままお開きになるかもしれないわ。でも、ご挨拶もなしに、勝手にお暇するわけにもいかないでしょう?」
主催者への挨拶もまだなのだ。長居をする気はないが、来たにせよ、帰るにせよ、せめて一言ぐらいはないと、失礼にあたるだろう。ただ、ここまで騒ぎになってしまうと、自己判断による辞去を促される場合もあるので、それはそれで、知る必要がある。彼女自身が見に行ければ良いのだが、まだ立ち上がれそうになかった。
「侯爵家のお庭で、まだ日も高いわ。何かあっても大丈夫なように用意は万全だし、滅多なことも起きないでしょう。すぐそこまで様子を見てくれるだけでいいの。お暇すべきかどうかだけでも見てきてちょうだい。あと、出来れば、お茶かお水を、もう一杯いただきたいわ」
「……仕方ないですね」
空になったティーカップを渡せば、まるおは渋々ながらも頷いて、その場を離れていった。
そうこうしている間にも、ますます事態は不穏さを増してきたようだ。性別問わず、複数の悲鳴が上がり、いっそう騒然となった。ここがまるで悍ましい場所であるかのように、複数の招待客が足早に立ち去る姿が見えた。女性は男性に縋るように、男性は、女性を守るように腰や背に手を回し、ぴったりと密着した格好だ。女性たちが一律、ハンカチを引き絞るように手にし、目元や口元に当てているのが印象的だ。どうやら、そういうお作法らしい――咲保は習ってはいないが、どこか大袈裟に感じる。
と、一部、人垣が割れ、それぞれ警備の者たちに挟まれる形で、四名ほどがその場を引っ立てられていくのには、流石にぎょっとした。抵抗をやめず、引きずられながら口汚い罵り声をあげている彼らこそが、この騒動の元凶のようだった。
(まぁ……)
まるで罪人のように引っ立てられる彼らは、咲保よりも年下の、まだ少年とも呼べる年若い者たちばかりだった。六歳下の弟よりも少し上の、高等学校生低学年だろう。親の名代としての出席するのには、ぎりぎりの年齢だ。
咲保の記憶が正しければ、あれは、九島伯爵家の嫡男を中心とした、子爵、男爵家の子息たちだろう。そろって成績優秀で眉目秀麗。『滅多にない豊作の世代』と呼ばれ、将来を目されていたのではなかったろうか。以前、父と兄が彼らを話題にしていた。それがどうして、何をしてこんなことになっているのか……?
彼らの後を追うように、彼らと同じ年ぐらいの少女が乱暴に引き立てられていく。どこの誰かはわからないが、令嬢ではないだろうことはすぐにわかった。桃色の膨らんだ袖に沢山のレェスのついた西洋人形のようなドレスは、遠目で見ても場にそぐわない派手さだ。家人が弁えた者であれば、そういう間違いはさせないものだが、そうではないのだろう。ぎゃんぎゃん金切り声をあげるみっともなさからも、育ちが窺えた。何故、あのような者が、格式高いこの場に入り込めたのだろうか。
理由はなんであれ、どうやら子ども達間の内輪揉めが高じた騒ぎであったのだろうと、咲保は推測した。それにしても、事を起こした場所がよろしくない。というよりも、最悪だ。
社交の場でしでかした失態は、一生、本人について回るだろうし、この場を主催する熾盛侯爵家に後ろ足で砂をかけたのと同じだ。家を巻き込んでの汚名となるだろう。華々しかったはずの彼ら彼女らの未来への道のりは細い隘路へと変わり、各家々の威光にも、幾ばくかの陰が落ちることになる。若さゆえの過ちと片付けるには、少々、高くつきすぎだろう。
子ども達が退場して、場の空気はいくらか落ち着いたようだった。ざわざわと風に揺れる木の葉のような声ばかりが届く。すると、また彼らが去った方向とは反対の人垣が割れ、一人の少女が抜け出てきた。縹色の地の振袖姿の美しい、確かあれは、皇の血にも近い公爵家のご令嬢ではなかったろうか。杜種家だったと思う。すたすたと早足で歩く姿勢は良く、一人、門の方向へと歩いていく。年配の淑女並みに裾捌きも完璧だ。不思議なことに、付き添う両親らしき姿も侍女もひとりとして見当たらない。良家の成人前の少女にして、この状況は異常だった。
何が彼女にあったのか――と、人を押し除けるように一人の青年が令嬢の後を追った。モーニングコートを身につけた、品の良さげな大柄な青年だ。そして、令嬢を呼び止め、何かしら話し仕掛けた。それに令嬢は答え、冷静ながらも、やはり、怒っているようだった。二人の間で短いやり取りがあり、何がどうしたのか、青年がいきなり令嬢を横抱きに抱え上げると、そのまま歩き始めた。抱えられた令嬢は高い悲鳴をあげて抵抗したようだが、すぐに気を失ってしまったようだ。衆目の中、脱力した令嬢を青年はどこかへ連れていってしまった。その間も、誰も止めようとする者はいなかった。
「まあ……」
これはどうしたことかしら、と咲保は困惑した。万が一、あの公爵令嬢の立場が咲保であれば、まるおが身を挺して庇ったであろう。
あの青年が何者かは知らないが、公爵令嬢は、これで彼の妻になる可能性が高くなった。大勢の目撃者がいる中、男女が二人きりで、しかも抱き抱えられての退場となれば、事実はどうあれ、あれこれ邪推されても仕方がない。ただ、令嬢は、ぎりぎり『保護した』でも通る年頃に見えるので、人々にどう受け止められるかによるだろう。
それが令嬢にとって吉と出るか凶と出るか、咲保にはわからないが、公爵家がらみのとなれば、このことは間違いなく政治的な立場に影響が出るし、派閥の再編も起こるに違いない。となれば、咲保の家も無関係ではいられまい。
「……面倒臭いこと」
咲保の独り言は風に消えたところで、やはり、これでお開きの様だ。うろうろと残る人々にゆっくり動く気配があった。当主は挨拶に出ていないようだが、使用人たちが招待客に引き出物を渡しながら、案内をしているようだった。
両親に厳命されていた社交も一言も喋らず終わってしまったが、仕方がない。理由が明確なだけに、言い訳するにも気が楽だ。とはいえ、まるおはまだ戻ってきていないので、この場を動くわけにもいかない。離れるのを渋ったわりには、随分と遅い。どうしたのだろうか?
どうしようかと考えていると、人溜まりを抜けて、華やかな柘榴色の振袖を身につけた女性が、ずんずんとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
(まぁ、綺麗……)
施された同系色の刺繍が恐ろしく凝った誂えである事が、遠目にも判断できた。動くたびに、特に裾部分の刺繍がまるで炎がゆらめくような光の変化をもたらしている。その事からも、彼女はかなり腹を立てている様子だった。
「あら」
「あら……」
近づいて、初めて女性はベンチに咲保がいることに気づいたようだった。そして、咲保も彼女が誰なのか、はっきりと認識した。化粧のせいで、記憶とは面立ちが変わって見えるが、色素の薄い髪色に彫りの濃い顔立ちは間違いようがない。主催者である熾盛侯爵家令嬢の茉莉花だ。
咲保は立ち上がると、軽く膝を曲げて今日初めての挨拶をした。
「お久しぶりにございます。木栖咲保でございます。本日はお招きいただきましてありがとうございます」
「ご丁寧にありがとうございます。本日はわざわざお越しいただいたにも関わらず、斯様な有り様になってしまい、熾盛家を代表してお詫び申し上げます」
怒りを引っ込めての優美な挨拶があった。相変わらず、こういったところも、流石だ。
「いいえ、折角の良き日和でしたのに、残念ですわね」
「お気遣い有り難く存じます……ご相席してもよろしくて?」
「えぇ、どうぞ。もし、お一人になりたいのでしたら、お譲りしますわ」
「いいえ、おかまいなく。そのままでいらしてくださいな。今はどこも落ち着きませんもの。お時間が許されるなら、ごゆっくりなさって」
「では、ありがたく」
咲保はベンチに腰を下ろし、少し間を開けた隣に茉莉花も落ち着いた。さて、と、挨拶も済ませたところでなにを話したらいいやらわからず、咲保は自身の長い藤色の袖を膝上に整えながら考えた。所作がことさら丁寧になってしまったのは、仕方がない。
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