蟄蛇坏戸 ―へびかくれてとをふさぐ― (六)
<六>
更にひと騒動を経て、その後の説明は手短に、当主らが戻る前にと咲保は熾盛家を後にした。恐縮し続ける茉莉花を宥め、笑って次の再会の約束を固くした。
「思いがけないことばかりだったけれど、楽しい一日だったわ。お友達もできたし」
「それはよろしゅうございました」
再び出てきてもらったまるおも今はすっかりと落ち着いて、人力車の隣の席で澄ましている。車夫は今は人の姿をしているが、まるおの仲間で、長い距離でも走ってくれるし、途中で疲れれば別の仲間に引き継ぐ事もしてくれるので、どんなに遠くても送り届けてくれるから安心だ。長距離を移動するのにもっと短時間ですむ方法もあるにはあるが、人目を憚る方法のため、こうした公の場所では、この人力車ならぬモノ力車は、便利に使わせてもらっている。
「まるおもありがとう。おかげでさして大事もなく過ごせたわ」
「失態もございましたのに、勿体なきお言葉、痛み入ります」
「あれは先方も悪いわ。とても失礼だったし、私も聞いていて腹が立ってよ。あれくらい大したことなくてよ」
「いいえ、まだまだ修行が足らぬと恥入りましてございます。いっそう精進して励みたいと存じます」
「まるおは真面目ね」
咲保は苦笑し、がたごとと揺れる風景を眺める。街は、すっかりと夕暮れの色に染まって、黄色く色づいた街路樹がとても美しい。
「……次の満月、久しぶりに『あわい』の薄ヶ原で野点がしたいわね。暁葉や浜路たちも誘って。この着物のお礼もしたいし」
この着物は少し強力すぎて、一部の友人たちが近寄り難くなってしまうため、着て見せてあげられないのは残念だけれど――。稲荷寿司やおはぎなど友人たちの好物を揃え、形式張らない茶会は楽しくも、久しくしていなかったことだ。
「それは、皆も喜びます」
「そうね、楽しみだわ」
淡い光の下、はしゃぎ笑いさざめくモノたちの様子を思い浮かべ、咲保は微笑んだ。
後日、茉莉花から届けられた知らせには、杜種環と熾盛楢司の縁組が成ったと報告があった。あれから幾度となく公爵家との間で話し合いがもたれ、収まるところに収まったらしい。ただ、直ぐにではなく、環の卒業を待ってから、正式に進める手筈だそうだ。手紙からは、歳の差はあるが、案外、二人の相性は悪くなさそうだと、茉莉花の安堵が伝わってきた。
環は、先の婚約者が悪い方ヘ変わっていく様子に気付きながらも、親に相談できなかったのは、各方面に多大な迷惑をかけるであろうことに、恐ろしく言えなかったからと茉莉花に告白したそうだ。同時に、対処できない環自身も責められるかもしれないと怯え、婚約者として何もできないことに恥入り、いずれは目が覚めるだろうと逃げている内に、あのような事になってしまったと、後悔しているそうだ。
だが、今度は、何があっても必ず茉莉花が力になるから、なんでも相談して欲しいと宣言したことで、安心したらしい。兄嫁だが、可愛い妹ができたみたいで嬉しいと書かれてあった。
破談となった佳江には、熾盛家当主が責任を持って、新たな縁談を紹介したそうだ。分家の更に分家と爵位も持たない家ではあるが、学位を持ち、教職につく身持ちの固い男性らしい。見合いの感触も上々で、嫁入りの際は、慰謝料代わりに支度金を熾盛家が用意することで、手打ちとなったようだ。咲保としても、佳江には、再び大蛇を育てないよう、是非、幸せになってもらいたいと思う。
全ての原因となった騒動を起こした九島少年らは、あの後、迎えに来たご保護者たちに、こってりと絞られたそうだ。彼らの目の前で、梟帥が見世物よろしく、彼らに憑いた蛇を取り出して見せた際には、阿鼻叫喚だったらしい。やはり、力ある者は、小物を見逃しやすい傾向にあるようだ。とんだ落とし穴である。
だが、祓ってしまえば、憑物を落とした少年たちは皆、文字通り、大人しくなったらしい。正気に戻ったというべきか。環と公爵家にその場で謝罪し、生意気な態度を改め、日々、真面目に励んでいるそうだ。やらかしたことをなかったことには出来ないが、反省も見られることから、大人たちも、これまで以上によくよく彼らを見守ることに決めたそうだ。
ところで、色欲の蛇の本体は、予想通り、行儀見習いの少女に憑いていたモノだった。激怒した公爵に、早々に実家に帰されて以降、彼女がどうなったかは不明だ。ドレス以外にも少年たちから貢がれていたようだが、金目の物などすべて持って出たことから、元からちゃっかりとして、逞しい性格のようだ。
まるおに言わせると、祓ったところであの手の性格は簡単に直るものではなく、この先も似たようなことを繰り返し、改めることがなければ、いずれは、よりタチの悪いモノに喰われて、ろくな人生を送れなくなるだろうとのことだ。彼女がどんな生き方をしようと勝手だが、咲保は二度と、すれ違うことすらしたくないと思う。
熾盛家当主から咲保へは丁寧な礼状と共に、高級西洋菓子の折詰が送られてきた。銀座の百貨店にも入っているという、評判の店のものだ。紅茶につづき、初めて口にした菓子の味は頬が緩む美味しさで、つい、食べ過ぎてしまい、まるおに叱られた。
事の次第を家族に話したところ、父からは、「よくやった」の褒め言葉をもらった。予想通り、あれ以来、他家の方々との政治的なやり取りで忙しくしているようだ。
母からはとても心配をされて、念の為にと、その日のうちに禊祓の儀式を行った。が、ほとんど何も影響を受けていなかったことに、泣いて喜ばれた。
兄の桐眞からは梟帥を名指しして、「二度とあいつに近づくな」と警告された。梟帥の話では一方的に和眞を知っている風であったが、兄の方も彼をよく知っているようだった。梟帥は黙っていても目立つだろうし、那須の時のように勤めが一緒の時もあるので、不思議はない。兄の渋い表情からは、あまり良い印象を持っていなさそうだが、性格的に合わないだろうな、と咲保も思う。梟帥とは茉莉花との付き合いの中で顔を合わせることもあるだろうが、何かあっても茉莉花が叱ってくれるから大丈夫だ、と兄に答えると、初めて見る、なんとも言えない表情になったのが面白かった。
茉莉花とは、今度、熾盛家の親戚が営むカフェーで会う約束をしている。カフェーと言ってもいかがわしい店ではなく、ミルクホールとの中間の、学生や婦女子も安心して入れる健全な店だそうだ。店には洋食のメニューもあって、オムライスが美味しいと言う。万全に結界も張られていて、限られた人間しか出入りできない仕様になっているので、咲保も安心だろうという配慮ある誘いに、一も二もなく頷いた。初めてのオムライスを、咲保はとても楽しみにしている。
「まるお、忘れ物はないかしら」
「はい。間違いなく」
「それじゃあ、いきましょうか」
野点の茶道具を携え、咲保が夜道に足を踏み出せば、ほう、ほう、と行き先を示すように道の両脇に狐火が灯った。虫の声が響き、開いた薄の穂先に、深まる秋を感じる。
「お寒ぅはございませんか」
「大丈夫よ。気持ち良いくらい。まるおは平気?」
「問題ありません」
「見て、綺麗なお月様ねぇ」
「左様にございますね」
好き秋の夜だ。
とろり、と滴るような長い黒髪を三つ編みにした咲保は、煌々と照る月を見上げた。
了