蟄蛇坏戸 ―へびかくれてとをふさぐ― (二)
<二>
熾盛茉莉花と咲保は、高等女学校の学舎で三年間を共に過ごした同級生だ。とはいえ、その間も、卒業してからの二年間も個人的な交流はほとんどなかったに等しい。稀に、社交場で顔を合わせた時に挨拶をするくらいだ。
彼女たちの女学校は、長らく政府の懸案とされていた、女子教育の規範として設立されてからまだ間もなかった。当時の教育制度は、世間の期待とは裏腹に方針もしかと定まっておらず、手探り状態だった。その上、生徒自身も学びを受ける覚悟が足りないことから、混乱も多かった。
日々、女子同士のつまらない軋轢や、隣接する男子学校生との諍いも多く発生し、騒がしくて仕方なかった。咲保などは毎日、授業後には這々の態で逃げ帰るような有様で、他の女学生たちのように、放課後に甘味屋に寄って交流をはかるだけの体力もなかった。
そんな中、茉莉花は常に好成績を収める優秀さで、卒業時には学年を代表するまでだったのだから、咲保とは真反対の立ち位置にいたと言えよう。そんな感じで、これまで、お互いに深い交流を持つ機会もなかった。
「今日はお一人でいらしたの?」
と、茉莉花の方から声がかった。
「ええ、はい。本来は両親がお伺いするはずだったのですが、今朝になって、外せない用事が入ったものですから……兄も同様に。なので、私が名代として伺わせていただきました」
ところが、どうしたことか、到着早々に気分が悪くなり、当主への挨拶をする以前にここで休んでいた――そんなことを説明した。
「ご用事とは、那須でございましょ」
「ご存知でしたの」
「えぇ、うちも両親と、二番目の兄も出ましたのよ」
「さようでしたか。熾盛家が出るまでとは存じませんでしたわ。ただ、封印が緩んだとだけで、詳細までは聞かされておりませんでしたもので」
木栖家にも朝一番で緊急連絡が届き、それからが家中バタバタで大変だった。
「皇に関わる古くからの因縁ですもの。万が一に備え、藩屏たる主だった家の方々は、皆、出ておられるはずよ」
「まぁ、それほどの大事でしたのね。お恥ずかしい」
「仕方ございませんわ。それだけ急なことでしたもの。こちらも、当日に中止にするわけにはいかず、斯様なありさまになってしまいましたが……」
そこまで聞いて、咲保も、あ、と思いついた。
「ひょっとして、先ほどの騒ぎは……」
口にした途端、めらり、と茉莉花から一筋の炎が立ち上るのが見えた。
「えぇ、親の居ぬ間に、というやつですわ。躾のなっていない坊ちゃん方がやらかしやがりましたの! 他家のハレの場で婚約破棄など、一体、なにを考えているのかしら!」
らしからぬ言葉の荒さだ。あらぁ、と思わず咲保も溜息を吐くしかなかった。
「……それはご愁傷さまでしたわね」
後始末が大変だろう。
「ここから遠目でしか見ていなかったので、詳しい話は存じ上げないのですが、お相手の方は杜種公爵家のご令嬢でしたの?」
「ええ、そう、環さま。私たちより三つ下だったかしら。何度かお話したこともございますけれど、お年のわりにしっかりとした方よ。ご自分の立場もよく弁えてらして」
「では、まだ就学されてらっしゃるのね。お相手の方も?」
十五歳となると、少し前なら成人の扱いになっている。時代も変わって、今は法的にも未成年扱いとされるが、歳を召された方の中にはそう考えない者もいるだろう。
「えぇ、そうらしいですわ。ですが、それが免罪符になろうはずがございませんわ。ご令嬢をあんな人前で寄ってたかって辱めるなんて、九島家も落ちたものですわね……あら、失礼。こんな言い方」
「いいえ、杜種家の家格からすれば、ご降嫁されるのとほとんど変わりませんもの。伯爵位である九島家が粗略に扱っていい方である筈がございませんわ。それに、せっかくの催しを台無しにされたのですもの。お腹立ちになられるのは当然かと」
「えぇ、本当に。皇に近しい尊き血が混じることで、九島家もより強固な血筋を得ようかと目論んでの縁談でございましたでしょうに、ご子息にはまったく伝わっていなかったようでございますわね」
「当然、公爵もお怒りになられるでしょうけれど、伯爵はご存じの事なのかしら」
「おそらく、ご存知ないと思いますわ。ご子息が勝手に行った事のようですわね」
「あら、まぁ。それではさぞかしお困りになられるでしょうね」
「九島家だけではございませんけれどね。他にも、笹生、加賀見、梨城、子爵、男爵家の方々が頭を抱えましてよ」
「お仲間ですのね」
「えぇ。うちも飛んだとばっちりですわ。両親も不在であるのに、皆様になんとご説明をすれば良いやら」
そうぼやく茉莉花に、咲保もそういうこともあるのか、と初めて気づいた。
「茉莉花さまは、大丈夫ですの?」
事と次第では、何が起きたか熾盛家からも各家々への説明が必要になるだろう。杜種公爵の怒り具合によっては、熾盛家にも九島家子息の暴挙を見逃したとして、なんらかの賠償を求められるかもしれない。
「どうかしら。その辺の事に関しては一番上の兄に任せますわ。実を申し上げますと、本日は、一番上の兄の婚約者の顔見世でもございましたの」
「あら、そうでしたの。おめでとうざいます」
「ありがとうございます……と言っていいのかしら。正式な披露目はもう少し先なのですけれど」
めでたい話なのに、茉莉花の苦々しい表情はどうしたことだろう。
「お相手は、どちらの家の方でらっしゃるの?」
「亀由家ですわ」
聞き覚えのあるその家名に、咲保は思わず息を呑んだ。
「……男爵家の? ひょっとして、十和子さま?」
「いえ、十和子さまの上のお姉さまですの。佳江さま」
「あぁ、それは……なんとお答えすればよろしいのか……」
それでも親戚付き合いは免れようもなく、咲保の心の中では、二度目の『ご愁傷さま』だ。
亀由男爵家の十和子は彼女たちの同級生であり、はきはきとして才気煥発といえば聞こえはいいが、特に騒動を起こす才能に長けていた。女性解放運動に傾倒した上に、苛烈な性格から在学中もあちこちで衝突を起こしていた人物だ。社会科の授業では、教師がついうっかりと、彼女に当ててしまったがために、授業時間のほとんどを使って、女性の社会的自立について演説をぶちかました。また、ある日は、馬鹿にされたと、男子学生と取っ組み合いの喧嘩までしたほどの女傑だ。
ある意味、学園一、目立つ生徒だった。その彼女の姉君とはどんな女性か、好奇心が微かに疼いた。しかし、熾盛家当主が認めたのであれば、案外、悪くないのかもしれない。
「いえ、よろしいのよ。あの方には、あなたも随分とご苦労なさっておいででしたでしょ。私も、さんざん西洋かぶれだのなんだのと、突っかかられたものでしたけれど……とんだ言い掛かりばかりで、うんざりしたものでしたわ」
「えぇ、まぁ、正直に言えば……」
天敵だった。咲保に向かって繰り返し呼ぶ、十和子の『公家のお姫ぃさま』という、人を小馬鹿にした声音が忘れられない。
十和子にとっての咲保は、曰く、『男に傅くだけで何も出来ない旧体制の女性』の象徴そのものだったようだ。事実、咲保も、自分一人では大して出来る事がない自覚はある。しかし、そうだとしても、強く当たられる理由にはならないと、未だ理不尽に感じている。気まずく黙っていると、茉莉花の方から労わりがあった。
「咲保さまのご事情は、私など旧い公家の流れの者には理解できましたけれど、お武家の出であるあの方達には、説明したところで理解できませんでしたでしょうね。素地がまったく違いますもの。ましてや最近、勲功にて叙爵された方々には、尚更、理解不可能でしょうし」
「えぇ。なんとも説明しようがありませんし、説明できたところで、嫌な気分にさせるのがオチですもの。結局、黙っているしか出来ませんでしたわ」
「こればかりは、そうですわねぇ」
ほぅ、と茉莉花が悩ましげな吐息を漏らした。
「十和子さまのおっしゃりたい事もわかるのですけれど、所詮、やり方が、力を誇示したがる殿方の真似事ですもの。耳を傾けられるものではございませんわ」
「そうですわね」
世の中には、声高に主張すべき事柄も時もあるとは思うが、尊重しろと主張する十和子こそが、最も他人を尊重していなかった様に、咲保も感じて仕方がなかった。
「お嬢さま、お待たせいたしました」
「あら、遅かったわね」
ようやく、まるおが戻ってきた。しかし、期待していたお茶の用意がなかったのは残念だ。
「申し訳ございません。厨房もいささか大変なご様子で、少々、お手伝いもさせていただきました」
「まあ、他家の方にまでお手を煩わせて申し訳なかったわ」
茉莉花の謝罪に、まるおは小さく頷くように挨拶をした。
「ありがとう、まるお。ご苦労さまだったわね。こちら熾盛家の茉莉花さま。女学校で同期だったのよ」
「左様でしたか。それで、ご当家の当主代理さまより、宜しければ昼食の用意があるので如何か、とのお誘いがございましたので、まずはお返事を伺いに参りました」
「あら、まぁ、そうなの。どうしようかしら?」
それは迷うところだ。気分はほとんど良くなったが、また粗相をしたりすれば、申し訳が立たない。
「あら、是非、そうなさってくださいな。折角ですもの。もう少し、おしゃべりもお付き合いいただきたいわ」
茉莉花からも誘われて、心が揺れた。彼女との交流をもう少々、楽しみたいと思ったのは、咲保も同じだ。
「まるおはどう思う? ご迷惑にならないかしら」
「他のお客様とは少し距離をとらせていただけるなら、問題ないかと」
「でしたら、居間の露壇に席をご用意させるわ。あそこでしたら、他のお客さまが来られることもないし、そこから見えるお庭も素敵なのよ」
と、茉莉花の誘いに、咲保はもう暫しの間、お邪魔することにした。