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こんにちは。ブライトウーマンワールドの旅人通訳者&コミュニケーションパートナーのえりりんこと高瀬惠理です🌈

今回は、2025/1/23は母親アップデートコミュニティ(HUC)の6周年記念日ということで、周年を祝うnote🍾の1/20を担当させていただきます!

本日、1/20というのは次女の7歳の誕生日🎂でもあります。

が、7年前の今頃というのは、人生で一番しんどかった時期でもあります💨

次女妊娠5ヶ月頃から、長女がネフローゼという腎臓の病気で入退院を繰り返していたのです。

いつ長女が入院するか分からない中、私もいつ出産するか分からない状態は辛いなぁと内心心配していたところ、次女の逆子が直らないということで、帝王切開が決定しました🆗

これは、かなりお姉ちゃん思いの妹なのではないか🤔と思ったものです。

2017年の年末年始は自宅に帰れたものの、1/20が近づくにつれて、尿たんぱくの値は悪くなる一報、、、💦
(ネフローゼとは、腎臓の内部にあるフィルターの機能が低下する病気。フィルターがうまく機能しないので、体の内部に取り込んでおかないといけないタンパク質が体の外に出て、排出しないといけない物が体の中に残ってしまう。)

そして、7年前の昨日、長女は結局再入院。夜まで付き添って、仕事終わりの夫と交代。帰り道🚗、セブンによって、ひとりちょっとした乾杯🥂妊婦だから、なにかお酒を飲んだわけでもないけど、赤ちゃんが生まれたら、こんな時間さえないだろうなぁと思ったから。

出産当日は、確か14:30から帝王切開の予定で、お昼ちょっと前にお世話になっているクリニックに入りました。

長女も同じところで出産したけど、普通分娩の難産タイプだったので、入院してからが大変だった💦24時間以上⏰

のに対し、14:30開始の14:46には赤ちゃん取り上げ完了✅😳(はやっ!)そこから、私のお腹を縫う方が時間かかる🧵⏳w

長女の調子は相変わらず悪いし、出産の数日後、夫が人身事故を起こす😱不幸中の幸いというか、相手の方の生命に別条はなしとのことだが、夫は免停になり、罰金20万円、、、💸

出産にあたり、夫の扶養に入るべく、夫の会社に申請🈸していたところ、加盟している健康組合だったか、申請の手続き部門から問い合わせがくる。
しかもまだ入院しているタイミングで、、、🚀💦

何か申請の不備かな?と思っていると、「高瀬さんは、フリーランスでの所得があるようですので、扶養に入る際はフリーランスをしないと一筆書いていただけますか?」とのこと。その一筆を書くと、申請がスムーズになるからとのことでした。

つまりは、扶養家族である限り、フリーランスとしての通訳の仕事ができないってことよね⁉️

(心の声)
いやいや、通訳の仕事を続けていくために、どんだけ苦労してきたと思ってんねん!申請が楽やからって負けてられるか!

と、私も説明を続ける。
「扶養に入っても、ある一定額まではたらけますよね!?それを越えないようにするので、フリーランスの仕事を辞めるという一筆は書けません。そもそも、そんなにフリーランスで稼いでもないし」と。

多分、そんなことを言って、過去のフリーランスの実績(決算書)を提出して、稼いでる金額が少ないことを証明した気がします。

帝王切開で出産すると、経産婦でも1週間入院するというのが通例のようで、1週間後退院。

その足で、長女の病院へ向かいました🚙赤ちゃんを抱っこするのを楽しみにしていた長女ですが、自分も入院して次女を抱っこできていなかったので、連れていったのでした。

その後、次女と私は1泊だけ自宅🏠で過ごし、翌日は、次女を預けるため夫の実家へ🚗

赤ちゃんはお母さんがいなくても、精神的にしんどくはならないだろうけど、すでに物心がついている長女はお母さんがいないと不安定になるだろう、という家族の判断から、次女を夫の実家にお願いすることにしたのです。

どうやら、夫が生まれた時、義母は自分の病気で数ヶ月入院していたようで、夫が生後3-4ヶ月になるまで赤ちゃんのお世話を夫の祖父母に任せていたようです。
これも何かの巡り合わせかな!?と次女のお世話を引き受けてくれたのでした😌

そして、私は長女の病院に戻り、長女のお世話をしながら、次女のために、定期的に搾乳。(*注:母乳というのは、赤ちゃんが吸っていないとでなくなってしまうのです。)その時の入院は1ヶ月くらいの予定だったので、1ヶ月後、次女が自宅に帰ってきても母乳が出るように&母乳には赤ちゃんの免疫になる成分も入っているということで、夜中も定期的に搾乳。電動搾乳機と病院の寛大さ(搾乳した母乳を冷凍庫で保存させてくれた)により、週に2回、搾乳した母乳を次女に届けることができた!

そうこうしていると、仕事中の夫からまた電話📞「東京への転勤が打診された!」というのです😳😳😳😳😳

長女はずっと入院しているし、次女は生まれたばっかりだし、悩みました。

転勤を断ってもらって、ずっと大阪にいるという職種への異動という選択肢がなかったわけでもないですが、なぜか私の心の声が「東京へ行けー!」と言ってました。

正直、関西人にとって、東京というのは、常に住むところではないというステレオタイプがあった(東京のみなさま、すみません💦)し、今も自己紹介をする時は、無駄に関西人ですと言っているくらい関西人としてのアイデンティティは強い方。

でも、通訳業界は東京の方がパイが大きくて全然違うともよく言われていて、いつかは東京との二拠点とかいいなとふと思っていたのが潜在意識として機能したのかも🤔

結局、夫だけ先に東京へ行って、子供と私の3人は、翌年から東京へ来ることにしました。

あの頃は、ひたすらに、子供を抱えて、バリバリ通訳できる日は来るだろうか???と必死で走っていた気がします。

7年経って、長女は春から中学生🌸✨
最初の病院に入院していたころ、「中学生くらいまでに再発しなければ、寛解(かんかい:ネフローゼとは、完全に治癒するものではないらしく、症状が出ない状態になること)。」と言われていたのですが、当時は毎日、尿たんぱくの数値が悪くなるので、「7年後とか遠いわっ!」毎日がほんとうに長かったです‼️

そして、去年、通訳者になろうと、営業をやっていた会社を辞めてから、15周年でした。おかげさまで、やりたかった仕事(オリンピック関連通訳、同時通訳案件、IR案件、海外出張などなど)はだいたいできるようになったし、できたかな🍀もちろん、上を見ればまだまだなのですが、あの乳呑み児と病児を抱えてた頃から考えるとすごい進歩👏🏻👏🏻👏🏻

なのですが、今年に入ったら、次は何を目指していけばいいのやら!?
という贅沢な悩みモードに突中🐗笑

ということで、去年の書き初めを読み返していると、こんなこと言ってる👇

私が海外に興味を持ったのも、中学生の頃に参加した町主催の国際交流会。人口2万人しかいない田舎町にも関わらず、公立の教育大学があっていろんな国から留学生が来てました。「せっかく日本に来たのに、まさかこんな田舎に住むことになるとは!」と冗談言ってた方もいらっしゃいます。笑

どこかで書いたような気もしますが、その後、大阪外国語大学を目指したのも、そこで知り合ったネパール方のコメントにインスパイアされたから。「外国語を学ぶなら大阪外国語大学がいいと思うよ。」と中学生の時に教えてもらった気がします。もしかしたら、「日本語を学ぶなら大阪外大~。」だったかも。かなり日本語が上手な方だったので✨

あんなワクワクした体験を子供たちにも提供できたらなとも思います。

2024年、初うだうだ書き初め!

そうだ!これからは、子供たちと海外をつなぐって活動をちょっとずつしたいな🐢🐢🐢

あと、家族が健康に過ごせてることにも感謝✨昔は、病院が家になってたからなあ。あと、No わらい、No ライフ & No いどう、No ライフを胸に、今年もいろんなところ行って、いっぱい笑うぞーーー🎵

ここまで、私の振り返りと今後について、お付き合いいただき、ありがとうございました💛みなさまにとっても、2025年が素敵な1年となりますように🍀

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えりりん(高瀬惠理)_通訳者_コミュニケーションパートナー | ブライトウーマンワールド
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