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105 「勉強」という行為は存在しない

最近ずっと忙しく、持ち帰り仕事ばかりしている日々です。持って帰るけど何もせずに(できずに)また職場に持っていく日もあります。(先生あるあるです 笑)

何もしない日。そんな日が最近ありません。休みの日も持ち帰り仕事。何もしないということをする日。「である」ことと「する」ことみたいだ。休みの日は何かしないといけない日になっています。

ストックがある人は休めるのか。休むってそもそも何をする、何をしないことをいうのか。「何もしない」ことも立派な行動です。子どもたちも何もしない日はあるのかな、とふと思います。みんな忙しそうです。

時代の潮流から逆行しますが、授業時数を大胆に減らせばいいとずっと僕は思っています。世界の競争から遅れてしまう、という危惧もあるでしょうが、いまのままで世界の競争を勝ち抜く可能性はどれくらいあるのでしょう。子どもたちはそんなことを考える時間がありません。

会議の場で「課題をなくせばいいんじゃないですか?」と言ったら場が凍りました。僕は本気でした。もちろんタワゴトとして雲散霧消しました。こういう意見は子どもたちに迎合しているように思われるのでしょう。

人は暇がないと勉強なんかしません。

しなければならないのは勉強じゃないのです。そして、自分に必要性が出てきた勉強はもはや勉強じゃありません。それは「生きがい」や「やりたいこと」なのです。

強いられるのは勉強は課題であり、ノルマです。勉強は本来自己のためのものです。何かを新しく学んだり復習したりする行動に「勉強」と名前がついているだけで、それを「苦行」とか「徒労」とか言い換えても通用します。

そしてはじめは勉強と思っていたものも、いずれ勉強じゃなくなります。名前をつけるとしたら便宜上そうなるだけなのです。

自分も見つめる時間もないのに文系理系と分けられ、どこに行くかわからない列車に乗せられていく。行き着く先はナントカ大学だとしても、そこはひとまずの通過点にすればいいと僕は生徒に話しています。大学が通過点なんか、使い古されて本当は言いたくない言葉です。

僕も生徒と同じく、明日の授業や行事の準備に追われています。本当なら「漱石が書いている『経験』って、どんなことを指すんやろね」とか「次は『小僧の神様』をみんなで読もうか」とか、のんびり生徒と話したい。野球をやりながら、ああでもない、こうでもないもやりたい。

そのためなら、やっぱり勉強っぽいこともしようってなります。

部活動に関する原稿依頼があり、先日書き上げました。書いているうちに、自分が考えていることがより明確になりました。

それをよりどころに、僕も勉強じゃない勉強をしていこうと決めました。勉強なんか本来存在しないのです。

こんなことを生徒話したいな。ま、これはできますよね。

スギモト