39 卒業式の送辞と答辞
今日、卒業式の予行がありました。今年は所属が2年生なので、送辞の指導の係になっています。紋切り型のある程度形は決まったものではありますが、ここで自分が話したいことをどれだけ入れるか、というのを生徒と相談をします。僕はなるべく具体的な場面が思い出せるものを入れよう、とすすめます。聴いている人が回想できるような。はいはい、と聞き流されてしまうのは悲しいからです。
中高と、僕も送辞と答辞を読む経験しました。中身も考えました。僕は当時大好きだったB'zの歌詞を真似て読んだ記憶があります。こだわりました。こういう遊び心がないとね。
さて、今日の3年生の答辞。よかった。パンデミックに奪われた青春ではありつつ、可能なサイズで最大限青春をしていたという内容。僕にはそう聞こえました。場さえあれば生徒は楽しめる。仕方がないと逃げて面倒な手続きを経ずに、なんでもかんでも中止にすることは可能です。でも、この時間は帰ってきません。もうコロナとの付き合い方もある程度わかってきているはず。抑制された言質ではありながら、この学校の生徒サイズの青春を垣間見た気がしました。
去年、中3の子に答辞の指導をしたとき、「コロナ」という語を用いずに中身を考えようと提案しました。思えば珍妙な語が世間を席巻してきました。
3蜜、ソーシャルディスタンス、人流、コロナ禍、濃厚接触、感染対策。
こういう手軽になってしまった奇妙な語を、簡単に君たちの青春に取り込むのが腹立つねん、と。頭の上をかすめるこういう言葉の下、自分たちが見てきた、感じてきたことを出していこう。
こうして振り返ると、この一年間は何かをずっと我慢し、やむを得ず自分を納得させてきた日々でした。しかし、今までにない時間だったからこそ、普通の日常生活の大切さをより強く実感しました。日常がいかにたくさんの人のおかげで成り立っていたか、今年は痛感することばかりでした。
生徒が紡いだこの言葉をふと思い出しました。大人は大人を生き過ぎている。子どもたちにしか見えないものやこと、それをどこまで考えているのか。昨今、コロナウイルス自体の怖さより、周りにどれほど迷惑をかけてしまうか、ということのほうが脅威になってきているように思います。数字や科学的な根拠、本当の意味でのリスクヘッジを。その感を強くしました。
明日は卒業式本番。教師は何度も経験できる式典ですが、明日しかない唯一無二のものとして、真摯に向き合って参列してこようと思います。
スギモト