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85 教師の「融通力」

先生は「まあ、これくらいはいいかな」の判断が苦手。

朝の打ち合わせで「今日の講演会は体育館なので手袋やマフラーはOKにしましょう」。こうして教室に上がると、「先生、寒いから上にダウン着てもいいですか?」と質問が来たとします。

心情的には「そうやんな」と思っても

「いいよ」と即答できないのが先生です。

自分のクラスだけ許可したら他のクラスの子たちと差が出てしまう。常にこういうつまらないしがらみに追われて日々過ごしています。

たとえば上のケースの場合、僕なら「そうやんな。学年の先生と相談して決めるわ」と言って保留し、学年で諮った際に強く推します。要求が正当だからです。暑い季節の折に外の行事で「先生、水筒もっていってもいいですか」とか、聞かなくてもいいようなことを生徒が言ってきたとき、自分の判断で「もちろん、いいよ。タオルも持っていきや」と言うだろうと思います。

許容のモノサシが明確な人、事前に打ち合わせてなくてもはみ出してもいいことが判断できる力が、教師の「融通力」だと僕は思います。
ひいては、この「融通力」が教師の力量とイコールになると思うのです。

経験的に「これは大丈夫だろう」と判断できることはいいのですが、ケースによって自分がリスクを一手に負うような事案もあります。生徒や保護者との信頼関係でなせるものはあるものの、それが往々にしてまかり通っても困る。そういう微妙な約束、駆け引きが少なからずあるのが学校の仕事です。

昔、こんなことがありました。

元気な生徒の担任をしたとき、毎日のように保護者に連絡をするようなことがありました。最初のうちには恐縮してくれるものの、やがて

「先生、ウチの子はいつも『先生たちは大げさや』って言ってます。最近私もそんなふうに思うんです。毎日こんな電話いりますか?あかんけど、これくらいで…って思うときもありました」と。

これはやばい。


毎日気まずい電話をするのもしんどい。だから僕はまとめて報告することにしました。同じグループの子が「なんであんたには電話かかってきてないのよ!」とか、変な言い合いをしていることも。それ、他の先生に言わんとってや…(笑)

そうするうちに

「先生、他の子は毎日電話されてるのに、ウチは様子見てくれてるんですね。学校から電話があるたびに『ドキッ』としてたから、ホッとできる時間が増えました」


「お母さん、その分僕はドキドキしながら、ほんまは電話せなかんのに、って思ってました」

と冗談を言い合えるようになりました。

こういう裁量は若い先生にはないし、判断しにくいものです。僕も毎日の電話がしのびないので、何日かに1回とするようになりました。見る人から見ればサボっている、ビビっていると言われるかもしれません。でも、最前線にいくのは自分。もし何か言われたら「これ以上関係が壊れると先々たいへんなので、自分の感覚でその日かあとか判断しています」と言っていたと思います。主任の先生にイヤな顔をされても仕方ない。

このケースは怪我の功名によるところは大きいのですが、日頃の自分の仕事ぶりで主任の先生も大目に見てくれていたのもあったと思います。いみじくも、ここでも主任の先生の融通力が発動しています。一様に家庭連絡を要請したけれども、この人の間合いでやってもらったらいい。緊急を要するものは立て続けに連絡することもありましたが、こうすることで関係性は良好になっていきました。

こういう融通きかせるのはあとあと教師の経験というか感性、感覚によるものだと思うようになりました。融通力。こんな言葉はありませんが、自分の責任と裁量で杓子定規でいかず、ある程度の幅をもたせる。

これがすなわち、教師の力量だと思うのです。

生徒の歓心を買うために勢いで勝手な判断をすることではありません。ただ、自分の判断で「これはいいかな」と待ったり、やり方を工夫したり、というのは生徒の実態を知っている先生がすべきことです。逆にこちらから提案し直して、軌道修正するのも生徒にとっては必要なことだと思います。

言われたままやれば簡単です。でも、そこで波打ってくる生徒や保護者からの反応に柔軟に対応し、批判的な声にもしなやかに返していくのが、その先生のカラーであり、力量であり、技だと思います。

どこまでずらしていいか。この判断は経験だけでは埋まらないものです。誰のためのそれか、そこに目を向けるクセがないと愚直に伝達するだけのスピーカーになってしまいます。でもねえ、こっちも怒られたくありませんからねえ…(笑)

大きなものから小さなものまで、適切な融通さを行使できる人になりたいなあ、といつもそういう場面に思っています。

スギモト