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代表のこれまでの歩みと、大切にしている価値観
カオスな日常生活環境でお小遣いを稼いだ幼少期
私の家系は東北の自営業一家でした。商店、運送業、サービスエリアの飲食店、美容院、花畑経営、芸術家など、業種や規模はさまざまでしたが、共通して労働集約型を手掛けておりました。
親族の事業が厳しいときには、トタン屋根の簡素な家で親族全員が川の字になって寝るような暮らしでした。
一方、事業が軌道に乗ってからは、少し良い家が建ち、食卓には鮨や天ぷらといったご馳走が食卓に並ぶなど、事業の状況と生活水準が密接に結びついておりました。
私の祖父母は岩手県和賀郡西和賀町で商店を営んでいました。食品や衣類を中心に扱い、加えて黒電話・塩・タバコといった専売品の免許を取得し、ゆだ錦秋湖駅付近で唯一の商店として営業をしておりました。当時、東北自動車道の建設が進む中、近くに大手建設会社の作業員が長期間滞在する飯場(寮や宿舎のようなもの)があり、衣類の調達、昼食や夕食の提供、さらには酒盛りの場を提供するなど、生活に根ざした幅広いサービスを展開していました。
よくある商店のように思えますが、実際には商店と家が一体化していたため、祖父母の家には地元の人々や建設会社の方々が頻繁に集まり、食事や酒盛りを楽しむカオスな日常が広がっていました。夏休みに祖父母の家へ帰省すると、そのような方々と同じ空間で生活することが、今振り返ればとてもユニークな環境でした。
最初は慣れない環境や知らない人々が同じ空間に居ることで、ストレスを感じていましたが、次第に慣れ「皆が楽しそうなら、それでいいか」と慣れていったことを今でも覚えています。
そんな中、私は酒盛り中の大人たちにビール瓶と栓抜きを運び、上手に栓を抜いてお酒を注ぎ、軽い会話やパフォーマンスで場を盛り上げることでチップをもらう「お小遣い稼ぎ」を始めました。当時、小銭をたくさん持つことが「お金持ち」であると理解していたのか、もらった小銭をとても喜んでいたそうです。大人たちはタバコやお酒を買った際のお釣りを保管するのが面倒だったのか、小銭を私へのチップとして渡してくれることが日常化していました。幼稚園児から小学校低学年の頃でしたが、チップだけで1日に1万円近くもらったこともあったと聞いています。
目の前の人を喜ばせることで、褒められる。一目置かれ、可愛がってもらい、報酬を得られる。
そうした商売の原体験を幼いながらに味わったことが、振り返ると、今の私の一部にもなっているように思います。
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仲間内の中での自分のキャラクターを何となく確立し始める学童期
横浜市の地元の小学校に進学してからは、田園都市線沿線に住んでいたこともあり、私立中学校の文化祭を見に行く機会がありました。今思い返すと、地方出身の両親は、私に良い教育環境を見せてくれていたのだと思います。
文化祭では理科の実験体験や部活動の見学などを通して、自分の知らない世界に触れ、目を輝かせたのを覚えています。そうして「こういった環境で学びたい」と素直に思い、中学受験をすることを決意しました。
塾に通い始めてからは、小学校の授業が退屈に感じられるようになり、自然と自分が興味を持ったことにエネルギーや時間をどう配分するかを考えるようになりました。地元の小学校はあくまで「受験勉強の息抜き」といった位置づけだったため、学校では友達と楽しく遊ぶことを大切にしておりました。友達が考えたイタズラをいかに面白く最大化するか、その企画・準備・手配を率先して行っていたため、私は先生方にとって扱いにくい厄介な生徒だったと思います。
当時は、ドッジボールや中当ての遊びが人気で、生徒たちは休み時間開始のチャイムと同時にクラスのボールを持って校庭の遊び場を確保しに走っていました。私は、その様子を観察して、休み時間が始まる1つ前の授業前に、各クラスのボールを仲間とともに回収して自分達しか分からない場所に隠しておきました。そして、校庭のドッジボールエリアを確保した子にボールを渡す代わりに、自分の仲間を必ずゲームに加えてもらう取り決めを結ぶようになりました。
思い返すと、仲の良い友達が常に楽しめる環境をいかに作れるかというゲームを楽しみながら過ごしていた気がします。このような企画を実現するためには、協力してくれる仲間が必要でした。そのため、ボールを集めて隠す計画を遂行する仲間を集めるために、学校の授業内容の理解に苦しんでいる友達に分からない所の解説をしておりました。
通っていた公立小学校では、中学受験のために塾に通う生徒にとって授業内容は簡単すぎることが多く、授業中に塾の教材で堂々と自習している生徒も少なくありませんでした。そのため、私が授業内容を理解できない生徒に個別で解説してフォローしてあげる行為は、教師から悪い事ではありつつも相対的に好意的に見られていたようです。結果的に、私のイタズラは先生からはお目こぼしされ、注意されることは殆どありませんでした。このようにして、自分の目的を達成するために協力してくれる仲間を増やしていきました。
他にも様々なイタズラエピソードも有りますが、このような経験を通じて、自分のやりたいことを実現するためには仲間を集めることが重要であること、そして障害になりそうな要素をルールギリギリの範囲で回避する知恵を身につけていくようになりました。
自分の考えを大切にする事を覚え始める中学時代
中学受験では、第1・2志望の学校には落ちてしまい、第3志望の学校に入学しました。入学して1ヵ月ほどで学校生活に慣れ、3カ月後には楽しさよりも退屈さが上回るようになりました。
入学してから気づいたのですが、校則には「帰り道にコンビニに寄ってはいけない」「前髪が目にかかる長さではいけない」など、”~いけない”系のルールが多いことに気づき、なぜこんなに細かくて面倒なルールがあるのだろうと疑問に思いながら過ごしていました。
また、家から学校までの通学途中で見る電車の大人たちは、皆ストレスを抱えて苛立っていたり、身なりがボサボサだったりと、子どもながらに「こんな大人にはなりたくない」と何となく感じていました。
そんな中、1年生の冬に父が人事異動で海外赴任することが決まりました。
家族会議では両親に、せっかく受験して入学した学校を辞めて転校するかどうか尋ねられましたが、学校生活の窮屈さや通学路で見る光景に嫌気がさしていた私は、リスクを考えることなく、新しい環境に身を置きたいという意見を両親に伝えました。
その結果、父の赴任に合わせて母・私・兄弟の家族全員でシンガポールに行くことになりました。私は中学受験を経て入学した学校を1年で辞め、中学2年からシンガポールの日本人学校に転校することになりました。
シンガポールの日本人学校に転校して初めての挨拶では、全校生徒とクラス全員の前で自己紹介をしました。
クラス全員の前での挨拶では、金髪・ピアス・ダメージジーンズといった不良の欲張りセットのような女の子が視界に入り、自由な環境にワクワクしつつも、馴染めるか不安な気持ちでいました。挨拶が終わった後は、その子の隣の近くの席に座る事になり、極力関わりたくないなと思っていましたが、挨拶をされたので、戸惑いながらも取り繕う形で返事をしたことを覚えています。
その後、実はその不良に見えた女の子が、学校の英語講師よりもはるかに流暢に英語を話せるネイティブであったことを知りました。他にもバンド活動に熱中しているクレイジーな生徒も英語が堪能で、人は見かけによらないことを実感しました。転校してからの自分の英語レベルは下から数えた方が早い方だったため、今までの自信が一瞬で崩れ去った瞬間でもありました。
そこから、自分が同級生と対等に付き合うためには何が必要かを自問自答し続け、最終的には中学3年生になった頃、勉強面では塾に通っていないものの数学がそこそこできる子として、また交流面では画期的なイタズラを企画し、仲間とともに実行する生徒となりました。
ある時、美術の授業で制作物のブーメランを家に忘れてしまった際に、美術教師から「やる気が無いから、制作物を忘れてくるのだろう。家に取りに帰るくらいの気持ちは無いのか?」と叱責され、「なるほど。この先生には行動で誠意を示す必要があるな」と思い、そのまま学校を抜け出して家に取りに帰りました。
ブーメランを手に学校に戻ると、先生に無断で学校を抜け出したことが問題となり、保護者が呼び出されました。(当時、シンガポールではスクールバスで生徒を送り迎えしていたため、学校が把握していない中で生徒が勝手に公共の移動手段で帰宅していたことが問題視されました。)
母が学校に呼ばれた際、教師から「お宅のお子さんには、常識が無い」と指摘を受けました。しかし母は「先生がそう言ったからこそ行動に移したのではないか。指導に私情を挟んだ結果ではないのか」と反論し、私を一切責めることはありませんでした。その後、学校側には一応謝罪をしましたが、学校を出た母は私に「自分で正しいと思ったことは、信念を持って行動に移しなさい。そして、やり切りなさい。その結果として頭を下げる必要があるのなら、いくらでも頭を下げてやるわ」と伝えてくれました。この言葉は、多感な時期の私の胸に深く刻まれました。
多感な時期で何かと親に反抗する機会が多かった私ですが、この言葉に「自分の価値観を信じて行動する力」を与えてもらったのを今でも鮮明に覚えております。
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経営判断の重みと、ある言葉に胸を打たれた高校時代
シンガポールの日本人学校の高校に進学すると、これまで親しく遊んでいた中学校の仲間たちの半分以上が日本に帰国してしまい、自然と疎遠になっていきました。高校でのクラスメイトは、家族でシンガポールに住む現地組と、親がシンガポール以外のアジア駐在のため子どもだけ寮生活を送る寮生組に分かれていました。
この新しい環境に馴染む中で、私は自分の居場所を見つける難しさを感じつつも、思春期ならではの模索が始まります。
高校生活は中学時代と比べて自由度が減り、学校は生徒をいかに系属大学に進学させるかという目標を重視していました。その影響で、生徒や保護者の間にも系属大学への進学を最優先とする空気が広がり、どこか型にはまった雰囲気に違和感を覚えました。
先生たちは、教育畑の出身者や固めの民間企業を数年で退職した保守的な経歴の方が多く、しきりに「系属の大学に進むことの素晴らしさ」を語るばかりで、私にはポジショントークにしか聞こえず、内心で退屈さと諦めが入り混じった感情を抱いていました。
そのような環境の中、生徒たちの間では、内申点や教師からの評価を得るために生徒会や文化祭、学級委員といった役職に積極的に就く姿が多く見られました。それが形式的であるように感じた私は、「彼らの言うことを聞きたくない」という反発心から、逆にいくつかの役職に自ら手を挙げるようになりました。形式的なものではなく、自分のやりたいことを実現するために役職を使うという姿勢を貫いていました。
そのような高校生活を送る中、父が駐在員として働いていた影響で、週末には現地法人の代表や役員の方々との会話に参加する機会が多くありました。父の会社のイベントでは、駐在員家族だけでなく、現地従業員やその家族、取引先との親睦を深める場面も多くありました。
特に印象的だったのは、上場企業の現地法人社長が組織マネジメントの重要性について語った場面です。「従業員と同じ目的を持った組織を作り上げる必要性があり、自分はその責任者である」と語るその姿に、企業を率いる者としての責任感の強さを感じました。また、「リーダーとして、前例のない取り組みにも挑戦し続けるべきだ」という言葉からは、彼の情熱と覚悟がひしひしと伝わってきました。
こうした交流を通じて、自分自身で進路を切り開く必要性を強く感じるようになりました。
そんな折、2008年にリーマンショックが発生し、父の会社の現地工場が閉鎖されることとなりました。
その結果、多くの現地従業員がリストラされる様子を目の当たりにし、経営の意思決定がいかに厳しく、人々の生活に大きな影響を与えるかを痛感しました。
ある日、オーチャードロードまでタクシーに乗った際、運転手が元従業員だった事が有ります。運転手は私の事を覚えてくださっており、「あなたやあなたのお父さんを恨んではいません。むしろ、最後まで私たちを雇用し続けてくれたことに感謝しています。今日のタクシー代は受け取れません」と言われた経験は、今でも決して忘れる事ができません。
その瞬間、自分の無力さを実感するとともに、人の感謝の言葉に深く胸を打たれました。
シンガポールでの生活では、日本人という理由でタクシー乗車を拒否されたり、誘拐をほのめかすような脅しを受けたりと厳しい体験も少なくありませんでした。しかし、それらの出来事には動じなくなっていた私でも、このリーマンショックによる経験だけは心に深く刻まれ、その後の人生の選択に大きな影響を与えました。
また当時、NHKドラマ『ハゲタカ』を観ていたこともあり、企業経営に興味を持つようになりました。経営の意思決定が人々の生活に及ぼす影響を経験していた私は、大学で経営を学ぶことを決意しました。
この経験がなければ、私の進路はまったく異なるものになっていたかもしれません。
社会でお金を稼ぐことを意識し始める大学・大学院時代
大学では経営工学を専攻し、統計学・ファイナンス・マーケティングといった分野を中心に学びました。
シンガポールで出会った駐在員の方々が「実践的なビジネスの経験を早く積むことが肝心だ」と語っていた影響を受け、座学にとどまらず、中小企業社長のかばん持ちといったアルバイトにも積極的に取り組みました。
また、そこから得た報酬は、全て株式やFX取引に投資する事を徹底しておりました。毎月第1金曜日のアメリカ雇用統計発表日には為替の激しい変動を狙ったスキャルピング取引や、企業の四半期決算発表に合わせて株価変動が大きい銘柄のデイトレードをはじめ、様々な投資手法の研究と検証に没頭しておりました。その熱中ぶりは尋常ではなく、気づけば研究室配属が決まるまで友人が一人もいない大学生活を送る結果となりました。
振り返ると、この時期は「何者でもない自分」が暗中模索しながら“お金を稼ぐこと”と向き合っていた重要な時間だったのだと思います。
私が学生だった2009年から2015年の間、日本社会は大きな変化に直面していました。民主党政権の誕生、円相場の対ドル最高値更新、そして東日本大震災。これらの出来事は大学生活に影響を与えると同時に、自分自身の価値観にも深く影響を及ぼしました。特に、2011年3月11日の東日本大震災発生時刻である14時46分から15時までの時間は、今でも鮮明に記憶しています。
地震が発生した瞬間、「株式市場が暴落する」という直感が働き、すべての資金をショートポジションに変更。さらに、報道で自宅が計画停電の対象エリアだと知ると、即座にシンガポール行きのチケットを手配しました。その後、シンガポールに移動し、為替介入や株価暴落といった市場イベントに対応しながら取引を継続。結果として、大学生としては十分すぎるリターンを得ることができました。
大学生になってからは、当時流行していたニコニコ生放送でFXトレーダーやコンサルタントたちの配信をよく見るようになっていました。八千草氏やフェイク氏といった配信者の放送を毎日追いかけ、彼らのような存在になりたいと強く思っていたのを覚えております。「チャンスは降ってきてから考えても遅く、いつでもつかみ取れるように自分を高め、機会を見極めることが重要である」という考え方を漠然と持っていたため、未曽有の事態においても条件反射的にトレードを行えたのだと思います。
大学院では、経営工学の延長線上にあるテーマをさらに深く学ぶことを選択しました。学術的な興味以上に、実社会との結びつきを重視したフィールドワークや産学連携のテーマに強く惹かれていたため、研究活動も「企業の現場視点」を意識した内容に取り組む事になりました。大学院の研究室には社会人大学院生が多く在籍し、コンサルティングファーム・金融機関・大手上場企業に所属する先輩達から多くの刺激を受けた事を覚えております。
彼らは研究室や職場において模範となる振る舞いをされており、その姿は私にとって「目指すべき大人像」そのものでした。「彼らのようなカッコいい大人になりたい」という思いが次第に強まり、それが自分の中で次なる明確な目標となりました。
大学・大学院での研究活動やトレード経験を活かし、事業会社のコモディティトレード部門や金融機関のトレーダー職を中心に就職活動を進める事にしました。そして最終的にAGC(旭硝子)に新卒入社する運びになりました。
この決断は、自分にとって「社会に出て何ができるか」を試す第一歩となったのです。
組織に貢献できる自分の価値を熟考する会社員時代
新卒で入社した会社では、愛知工場に配属され生産管理業務に従事することになりました。主に国内用の自動車ガラスの生産計画を作成し、完成車メーカーからの注文数量や納期オーダーと、社内製造部門の生産を調整するのが主な仕事でした。
この業務は、安定した製品供給を実現するための重要な役割でしたが、常に関係者と何かしらの交渉・調整が生じる仕事でした。製造部門の担当者からは「こんな計画、実行できるわけがない」「次に同じ依頼をしてきたら、ただじゃ済ませないぞ」といった厳しい言葉を頂く事が状態化しており、更にキツイ言葉も浴びせられ、心が折れるような日々が続きました。先輩の指導があるとは言え、新人の私が作成する計画は現実味が欠けている部分もあるのかもしれないと自分自身をなだめつつ、諦め半分で業務に臨むこともありました。
この頃、特に苦しかったのは社内全体に「一体となって良い製品を届けよう」という思いが欠けており、むしろ各部署が「自分たちの利益だけを守る」姿勢を優先していたことです。このような組織の空気に、1年目の私は無力感を抱きながらも日々をやり過ごしていました。私の部署には年齢が近い先輩達がおり、彼らは非常に優秀で、まるで鉄人のように仕事をこなしていたため、少しでも彼らの邪魔にならないように気を張って過ごしていたのを覚えております。(その後、先輩達は、コンサルティングファーム・GAFA・ファンド投資先企業の取締役などに転職し、社会で輝かしい活躍を遂げています)
毎日22時を超えて働く生活に漠然としたやるせなさを抱えながら日々過ごしていたところ、父が大腸がんを患ったと聞かされました。それ以来、平日は残業をこなし、金曜の夜には終電や車で愛知から横浜へ戻る生活が続きました。このような生活を続ける中で、「自分は誰のために働いているのか」という問いが心の中で膨らんでいきました。上司に働き方に関する相談を行ったところ、「親はいずれ亡くなるんだから、今の仕事を続けてくれ」と言われ、そのような組織に貢献する意義が分からなくなり退職を決意しました。この経験は、私にとって転機となり、「自分は何のために働くのか」を真剣に考えるきっかけとなりました。
AGCを退職して家族の問題がひと段落した後に、「顧客を向いて仕事をしている会社」「社員が高いモチベーションで働いている環境」を求めて転職活動を始めました。過去の生い立ちや経験を包み隠さずに面談を行った企業に話をした結果、リクルートコミュニケーションズに入社する事になりました。大手企業をすぐに辞めた自分のような人物を評価してくれる会社があることに、驚きと感謝を感じました。
リクルートコミュニケーションズに入社した私は、「企画統括」と呼ばれる部署で業務を担当することになりました。リクルートというと、営業でエネルギッシュに活躍する社員たちの姿を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、私が所属したのは経営企画に近い性質を持つ部署。各事業の計画や管理を通じて、組織全体がスムーズに動けるようにサポートする役割を担っていました。そこには、各事業会社で抜群の成果を挙げた役職者や、過去のプロジェクトで卓越した能力を発揮した選抜メンバーが集まり、私はそんな彼らのパフォーマンスを最大化するための統括業務を担当しました。
扱うプロジェクトは幅広く、その多くが中長期的な取り組みを必要とするものでした。一例を紹介すると「既存アプリの提供価値を拡張する新機能の企画」や「ユーザー情報の分析をもとにしたサービス需要の予測技術の確立」、さらには「ポスドク学生の就職問題解決に向けた新規事業の立案」といった内容まで、テーマは多岐にわたり、なぜリクルートが手掛けるのか一見では分からないものも少なくありませんでした。こうした案件を成功させるために、プロジェクトの目的設定や課題の特定、解決策の立案、スケジュールの策定などを行い、役職者が判断を下すための材料を提供することが私たちの仕事でした。
社内では目立つタイプではなかった私は、いわゆる「スター社員」たちの隙間時間に雑談を交わしたり、ロジ周りや雑務を引き受けたりすることが多くありました。例えば、「急なランチミーティングのために、美味しい弁当を20~30個手配してほしい」「50人規模のセミナー開催のために、適切な貸し会議室を探してほしい」「キックオフイベントの会場手配から当日の段取りまで、全て任せたい」といった依頼に応じ、事務スタッフと連携しながら一つ一つ対応しました。そうした日々の中で、自然と「頼りやすい存在」として認識されるようになり、業務範囲が少しずつ広がっていきました。
いつしか、収支管理における資産計上や原価償却の相談、市場調査のための特殊な人材リクルーティング、さらには業務提携の可能性がある交渉先のリストアップ、ビジネスDDのために必要な情報のまとめなど、専門性を求められる業務にも関わる機会が増えていきました。決して華やかな表舞台に立つ役割ではないものの、「助かるよ」と言ってもらえる度に深い達成感を覚える仕事でした。そんな経験を通じて、目立たない裏方として組織を支えることの重要性に気づき、むしろ極める道もあるのではないかと思うようになりました。
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振り返ると、自営業の家庭で育った環境が、私のビジネス観に影響を与えていたのかもしれません。普通の会社員とは少し違った視点で物事を見る癖がありましたし、他の社員が敬遠する裏方の仕事にも抵抗がありませんでした。そのおかげで、「ちょっと変わったキャラクター」として認知され、周囲に可愛がられる存在になれたのだと思います。自分に特別なスキルがなくても、才能あふれる社員たちに囲まれながら過ごす日々は、貴重でかけがえのないものでした。
こうして裏方業務を通じて組織を支えることの意味を学び、チームにとって必要不可欠な存在を目指すことが、私にとっての働く意義となりました。その価値観は今でも変わらず、私のキャリアの軸となっています。
neoマイルドヤンキー経営×次世代経営に向けたバリューアップの最前線へ
リクルートで企画統括業務に携わっていた頃、私は多くの事業投資に関する議論や意思決定の場に同席する機会に恵まれました。局長や部長といった役職者が、客観的なデータと担当者の想いの込められた起案資料をもとに、投資の実行・保留・凍結・撤退といった判断をしていく様子は非常に印象的でした。
意思決定をされる度に私は、彼らがどういった前提や価値観に基づき意思決定をしているのかを考え、自分なりの仮説を立てる事を習慣化するようになりました。次第に「もしこれが自分の親族の会社であれば、彼らとは違う軸で判断していただろう。オーナー社長の立場なら、このリスクを許容するのではないか」と思うようになりました。
立場や背景が違えば、同じ投資案件でも全く異なる判断に至る。
当たり前の事では有りますが、意外と日々忙しく過ごす中で見落としがちな事に気づくようになり、事業投資の奥深さに魅了されるようになりました。
そのような意識を持ち始めてから、将来的に親族の事業管理に関与する可能性を考えつつ、ふと「このまま会社を辞めて親族の会社経営に携わるだけでは、自分らしくないな」と感じ始めました。
それよりも、自らゼロから事業を立ち上げる挑戦をしたい。そのような思いが次第に膨らんでいきました。
事業を始めるにあたり、私が考えたのは、大企業が参入しにくく、個人が挑戦できるビジネス領域に踏み出すことでした。リクルートでの経験から学んだのは、大企業は豊富な知力・マンパワー・資金を駆使して圧倒的な競争力を発揮するため、そうした企業と競合するリスクを避けることが、事業の持続性を高めるうえで重要だということでした。そこで私は、「認可制のビジネスで、かつエリート層から敬遠される分野」に注目しました。
この条件を満たす領域なら、競争が比較的穏やかで、長期的な事業運営が可能だろうと考えたのです。
いくつものビジネスモデルを検討した結果、医療関連サービス・産業廃棄物処理・保育・介護・自動車解体・レジャーホテルといった分野が候補に浮かび上がりました。各ビジネス分野の事業計画を作成し、それぞれ監督している行政等と許認可の獲得のためのやり取りを行いました。そして、最も早く許認可を得る事が出来た、介護施設の立ち上げに挑戦することになりました。会社員時代からほとんど使っていなかった給与による預金を原資に、ゼロから介護施設を立ち上げるプロジェクトが立ち上がりました。
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介護施設の運営にあたり、オーナーである私が現場に出ることなく事業が成り立つよう、詳細な事業計画作成と業務設計に多くの時間を注ぎ込みました。
業務オペレーション・人材採用・業務改善の各プロセスを立ち上げ初期に型化して、トップダウンでの意思決定を基本としました。日々の運営は採用した管理職に委ね、私は週次単位で報告を受けながら、必要に応じて店舗視察を行うというスタイルで事業を管理しました。
初期の採用では、多様な背景を持つ人材に着目しました。例えば、専門学校や高校を卒業後、雑貨店やスポーツショップ、他の介護施設で働く中で正社員として働きたいものの、それが叶ってない方々を正社員として採用しました。
また、パート職には、育児でフルタイム勤務を離れている優秀な人材を積極的に採用しました。命を左右するICU施設専属として携わっていた看護師・上場したベンチャー企業の初期メンバーとして働いていた凄腕主婦など、当時の業務内容に対してオーバースペックな方々との縁に恵まれました。
こうして、正社員とパート社員が集まり、多様性に富んだチームを形成する事が出来ました。
一見するとバランスが悪いこのチームは、オーナーの意向をくみ取り、業務効率の飛躍的な向上を成し遂げました。優秀なパート社員が現場の課題を的確に言語化し、それを私に提案してくれました。その実行を正社員が担うことで、従来の介護施設の常識を覆す少人数によるオペレーションを実現しました。この結果、人員配置を最適化し、1人当たりの労働分配率を競合よりも高い水準で達成しました。また、業務オペレーションを可視化する仕組みを整えることで、正社員だけでなくパート社員にも賞与を支給できる体制を築きました。
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その後、コロナ禍という試練が訪れました。事業計画を刷新し、金融機関との協議を重ねて借入金を増やし、非接触サービスの導入といった新たな施策を次々に講じることで、事業の持続性を確保しました。この危機を乗り越えた経験は、事業運営における私の自信をさらに深めるものとなりました。
介護施設の運営を続ける中で、次第に他社からの相談依頼が増えていきました。
介護事業に参入したい企業や関連事業の買収を検討する企業が、私に事業企画やアドバイザリーの依頼をしてくるようになったのです。介護という分野は一定規模の市場を持ちながら、その実態は外部からは見えにくい部分が多く、このギャップが企業の参入を妨げていることを実感しました。
また、介護事業における現場での課題や業務構造は、大手事業会社やコンサルティングファーム・PEファンドといった人件費の高い方々であればあるほど、把握することが難しいということにも気づきました。
私はこの課題を解決するため、事業企画案の検討支援や買収に向けたビジネスデューデリジェンスのアドバイザリーを手掛け、PEファンドやコンサルティングファームとの取引を広げていきました。
その結果、介護事業所のオーナー経験を持ちながら、PEファンドや戦略コンサルティングファームと共に事業改善に取り組む、独自のキャリアを築くようになりました。
介護に限らず、水産養殖・アパレル・Webデザイン・IoT機器販売・通信業・製造業など労働集約型の分野で、営業利益向上の計画策定や実行支援を中心に数多くのプロジェクトを手掛けるバリューアップの専門家としての道を究めるようになりました。
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2024年1月、私は、長年携わってきた介護事業を売却しました。
コロナ禍がようやく落ち着き始めた頃、私のもとに様々な企業から連絡が来るようになりました。その内容は、私が培った介護事業運営のノウハウに強い関心を抱き、事業の買収を検討したいというものでした。
買い手となる企業は、大手から中小まで規模も背景も多岐にわたり、それぞれが抱える課題や展望の中で、私の介護事業の知見がどのように貢献できるかを真剣に模索しておりました。
私自身も、従業員の雇用が守られ、事業の価値が次世代へと引き継がれるのであれば、売却も一つの選択肢だと考えていましたので、株式譲渡する運びとなりました。
この売却経験を経て、私は新たなステージへと踏み出す事になりました。
2024年1月、Buona Vista Management Partners株式会社を設立し、これまで培ってきた知見や経験を活かした経営支援サービスを提供しています。
事業をゼロから立ち上げ、安定期を迎え、そして売却に至るまで、私はオーナーとして事業のライフサイクル全てを経験しました。この過程で培われたものは単なる経営スキルだけではなく、リーダーとしての視点や、困難を乗り越えるための粘り強さ、そして人々と共に価値を創造する喜びでした。
さらに、PEファンドやコンサルティングファームといったプロフェッショナルとのプロジェクトに携わる中で、さまざまな課題に向き合い、それを解決してきた経験は、私のキャリアに新たな視点と深みをもたらしました。
こうした経験の積み重ねは、私たちにしか提供できない独自の価値を生み出していると確信しております。
事業運営の実践的な知見と、外部専門家との連携を活かした戦略的アプローチ。その双方の知見を兼ね備えた支援は、多くの企業の課題解決に寄与できるはずです。
さいごに
現在、私たちは「未来を描く。共に創る。」という理念のもと、大手企業のプロジェクト推進、地方に根ざした企業の経営支援、中小企業の事業承継など、多岐にわたる課題解決に取り組んでいます。
単に結果を追求するだけでなく、関わる全ての人々と一緒に未来を形作り、新たな価値を創造することを目指しています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
もし、私たちのサービスや取り組みにご興味をお持ちいただけましたら、ぜひお気軽にご連絡ください。
皆様と直接お話しできる機会を、心より楽しみにしております。