「好き」になるには理由があった。(創作大賞感想)
和菓子屋さんもいいけれど。
洋菓子屋さんのあのガラスケースの中は
幾つになっても、心が躍る。
味覚の中でも「甘い」には弱い。
甘いのなかでもあの「モンブラン」を
えこひいきしながら「モンブラン」愛を
綴った方、もつにこみさんのこのエッセイが
好きだ。
わたしも小さい頃からモンブラン好きですよって
思っていたけれど。
もつにこみさんの「すき」はもっと次元の
違う「すき」にあふれてて、清々しい。
みんな「すき」はもっと語ろうよって思えて
しまうほど。
そうモンブランのモンはフランス語の「mon」で
「わたしの」という意味だった。
モンブラン、つまり「わたしの山」だ。
「わたしの山」にちなんでもつにこみさんは
「山の日」にモンブランを食べる日に
しようと考えるところが素敵だ。
お仕着せじゃない。
じぶんちの楽しいルールを作ってしまうところ。
日常をじぶんのすきなもので、演出するって
日々をすこしでも陽気に楽しく生きる術のような
気がする。
こうやって「すき」に対しての明確な理由を述べてらっしゃる
ところも、背筋がまっすぐ伸びてるみたいでとてもいい。
好きであることには時に骨格が必要なのだ。
でれっとしなだれるような好きじゃなく。
どこか凛としているところがいい。
でも時にそのルールはかわいく脱線する。
そして「すき」は時代を遡る。
それも昭和とかじゃなく縄文時代に。
なぜかというと、あの栗にたどりつくために。
縄文時代の主食は木の実だったと。
そしてその主役は栗だったことを知る。
おお!なんという晴れやかなmon栗への肯定。
好きを語るとはこういうことかもしれない。
好きの歴史をひも解き、ちゃんとそのルーツに出会い
自分の中で運命的な出会いを感じ取る。
先ほどもつにこみさんの「好きへの語り方」に
骨格を感じると述べたけれど。
まさにその理由が展開される。
日本のモンブランは日本で独特の進化をしているらしい。
そして、総じて美味しいからだと仰る。
ね、すごいです。
これほどまでに背筋を伸ばして「モンへの愛」を語れるなんて
ちょっと天晴です。
日本のお店の数だけいろいろな「モン」があるらしい。
それを許容しているのも日本の良さであると。
モンの形は日本では定型がなくそれぞれであること。
色も味もまたそれぞれであること。
なんか、これだけ浸透しているモンのことだから
とてもむずかしい掟があるのかと思っていた。
でもそうじゃなく。
伝統は伝統として受け継ぎながら現代にあわせて
お店ごとに進化しているところがとても自由で
素敵だと思った。
そして個人的にへーそうなんだと唸ったのが次の
ふたつのことだった。
隠すように召し上がっていらっしゃるもつにこみさんに
なんだかモンへの愛おしさがあふれていてきゅんとした。
そしてナイフついてくるの?ってびっくりした。
フォーク&ナイフなぜに?
なるほど。
食べた時の味のことだけじゃなく。
食べている途中も美しく食べたい。
好きなものを食べるとはそのものの姿を
まるごと愛することかもしれない。
わたしはもつにこみさんのこちらのnoteで
モンブランへの愛を通して、「好き」を
語るとはここまでとことん掘り下げるんやぞって
いうその想いがとても美しいと思った。
そこに賭けてきた膨大な時間とお金も含めて
愛を注ぐってこういうことなんだと。
美味しいを語る。それは読んでいる読者までもが
幸せな時間をわけてもらっている気持ちになる。
そして一生でひとつだけわたしだけのそう「モン」が
みつかる人生は豊かだと思った。