【#クリスマス金曜トワイライト】レモンって、どこかさびしい匂いがするね。
さよならをずっと先延ばしにしている。
そんな言葉が浮かんで消えた。
きっと栞の心のどこかに巣食ってしまっているんだろう。
彼も同じ思いの中にいるのかどうか確かめるすべもないし、
そうすることがどこか、まだ早いのかもしれないと言い訳の
ひとつにしてしまっていた。
わたし忘れられない人がいるなんて、栞は言えなかった。
それではない理由をずっと探してる。
そんな残酷なことを彼には言えないって。
もっと彼自身を傷つけないそんな別れ方を栞はしたいと思っていた。
今でも時々、駅の階段を走り抜けてゆく足音が聞こえると、ふいに
振り返ってしまう。
あなたじゃないことは知っているのに、あなたにさよならしたのは、
わたしなのに、ズルいね、やなやつだねわたし。
それでもどこかで、まだあなたが探してくれているような気がして。
あなたの足の刻み方、今でも耳の中に残ってる。
あなたの靴音のリズムは、わたしの身体のどこか名前のない場所に
響いてて、今もずっと鳴ってる。
あの日の夜のJRの上野駅。イルミネーションがちょっと煌めき
すぎて邪魔だった、見たくなかった。
5年ぶりにわたし同じ駅に立っていた。
今は湘南に住んでる。すぐ側に海はないけれど、
雨の日には潮の匂いがしてきて、あの日あなたと行った海の見える
クラシックホテルの香りと似てるって思う度、なんだか滲んでくる。
わたしもう書道の先生じゃないんだ。
やめたの。続けられなかった。字を書くのはあんなに好きだったのに。
理由は潤、あなただよ。つまりわたしのことでもあるけれど。
あの日のこと覚えてる?
ふたり遅い朝食をベッドの上で取りながら、
フレッシュオレンジジュースにレモンを入れると美味しいよって
あなたが言って、わたしがレモンを指で絞ろうとしたら、
あなたの指がぎゅっと果実のしずくをこしらえてくれた。
あなたが口移しでジュースを飲ませてくれた後。
ふたりでしたこと覚えてる?
栞はどんなふうに書道を生徒さんに教えるの? って
あなたが聞いてくるから。
わたしあなたに教えてあげた。
潤、目をつぶってって言ったらあなた教室で何、教えてるのって、
笑ったね。
シーツをふたりかぶったままで、朝食の為の小さなテーブルを
机代わりにして。
わたしの後ろにあなたを立たせてわたしは目をつぶった。
筆をふたりでもって。
潤、あなたの熱い指がわたしの指に重なって、あなたの声が
わたしをナビゲートしてくれた。
わたしあなたが作ったコピーを、書きたかった。
<雨の日は、恋しよう>。
あれを書きたかったって言ったら、オッケーって耳元で囁いて。
栞、目をつむってる? あなたの息が耳の側に届いて、
わたしが頷くと、あなたとふたりで筆を持っていた指が静かに
動いた。
<雨>の雨を書いている気がしなかったけど。
薄々かんじてはいたけれど。
眼を開けたら、<栞>ってすごい下手な墨文字ができてて、
ふたりで笑ったね。
ゆっくりと、ためて。
曲がって、右に。そして左に。
まっすぐ、まっすぐ、もうすこしがまんして。
あなたの声は今もわたしの耳に棲んでるよ。
栞の首筋はレモンの匂いがするって言ってくれたあなたの声が。
地元のちいさなデパートに栞は勤めた。催事の時に時々書を書く
部門。結局その仕事しか栞にはなかった。
そこの外商部の彼と付き合ってる。
なぜ彼と付き合ったのか。名前が風嶋 潤だったから。
潤。
忘れようとしている名前に、運命のように出会ってしまったと
思いたかった。
いつか風嶋 潤に、潤って囁いただけで、
栞は涙が止まらなくなった。
それでも、その涙の訳を知らないふりをして、栞は潤の名前を
呼び続けた。
とぎれとぎれになる栞の声が掠れてゆくように、潤と囁いた時、
ふたりシーツの海に果てていた。
潤じゃなくて、わたし風嶋さんって呼ぶことにした。
そして風嶋さんと明日、別れることを決めている。
あなたの作ったコピー、<雨の日は、恋しよう>がわたしの住む
街のちいさなアンブレラばかり売っているお店に、色あせたまま
貼られていたのをみつけたの。
あなたが作ったコピーわたしほんとうは好きだったよ。
広告の仕事している時のあなたは嫌いっていつか言ったけど。
それはあなたと次の夏も一緒にいられる気がしなかったことが
寂しかったから。ただただいつも逢いたかったから。
だから、時々プレゼンに負けた時のあなたの眉間のしわもぜんぶ
好きだった。
レモンつながりで、京都の丸善に一緒に行こうってあの約束
まだ覚えてる?
今日、わたしあなたに手紙を出したから、今度はJRの京都駅で
あなたのことを待ってる。
潤、今でもあなたを愛してる。
おなじ風 吸い込んでいる 夜の余白に
しゃぼん 吐き出している 虹を抱えて
追記:
なぜその作品をリライトに選んだのか
好きなのに別れなければいけない彼ら二人が失った記憶があまりにも切なくうつくしすぎたから。
何処にフォーカスしてリライトしたのか
①原作は彼が語り手であったので、別れを決意した彼女の視点で描きたかったこと。
②ふたりのこれからをみてみたい。彼女が今も忘れられないという設定でどこかハッピーエンドをにおわすものにしてリライトさせて頂きました。
池松潤様、この企画にぎりぎりでしたが参加させていただけたこと感謝申しあげます。そして池松さんのお名前を作品の中で拝借させていただきました。潤さんという名前がとても好きだったので。ありがとうございました。