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出会ったことのない誰かが心にいる、noteってそんな場所。

ずっと、SNSとかと無縁で生きてきたので

このnoteがはじめてのSNSのようなものだった。

今年の一月一日の新潮社の広告のキャッチフレーズは

私たちは人類史上かつてなく他人と接続しているのに
なぜ孤独を感じるのだろう

というものだったけど。

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つながるってなんだろうって。

それってただログインしているだけのことを

言っているのだったらそれは物理的に

つながっているだけなんだなって。

そんなことを思いながらちょっとだけ

昔見た映画を思い出す。

『イルマーレ』

すっごく不安定な形の細すぎる脚をもった

家が入り江に建っている。

砂浜には、その扉を閉める時にカチっと

振動が指先にまで伝わってくるような

赤いポストがある。

その砂浜に続く桟橋を通らないと玄関へと

たどり着けない。

すべてがあやふやな空気に包まれている

そんな韓国の映画だった。

海の上に紙でできた建築物が建っている

ようなアンバランスなその家は、むかし

女の人が住んでいて、いまは別の男の

ひとが住んでいる。

でも、どちらもその人達の時間は「いま」で。

ほんとうの暦、カレンダーでは男の人が生きて

いる「いま」よりも2年ぐらい時間は進んで

いる。

というか、まったく違う時空間を生きている。

そしてふたりの男女は手紙だけのやりとりを

する。

ふたりの間柄が、日々を追うごとに微妙に変化

してゆく。

そして、ずれた時間を生きたままもどかしい

ほどに交わし合い、すれちがってゆく。

なんか、最後まで切なさの濃度が変わらない。

でも、最後の最後はハッピーエンドで終わる

そんな映画だった。

これを見終わった後、もやもやしたなかにも

すとんと晴れたようなふしぎな空間の中に

いた。

どうしてかわからないけど。

手紙だけのふたりのやりとりの中に、

書けなかった手紙のことを思いだしたのかも

しれないし。

映画の中に描かれていた「いま」のせいで、

そんな気分がしたのかもしれない。

彼らの「いま」はまったく違う時間の

「いま」で。

いっぽうその映画を観ていたわたしは

2021年の何月何日でという日々の上に

立っている。

暦の上ではおなじ「いま」を生きていても

ちゃんと出会えない「いま」。

この映画って、いつあの病が終わるのかも

しれないこの時代にとてもぴったりで、

今年これをみているって悪くないなって思う。

映画を観ながらnoteで誰かと出会うことも

おなじように考えていた。

そこにいるわけじゃないそれぞれの時間を

生きている人達と言葉を交わしながら、

笑ったり時にはくよくよしたり、さらさら

忘れてみたり時にはさびしくなったり。

いろいろな感情の中で生きている。

そしてふたたびあの新潮社のコピーを

思いだしながら、『イルマーレ』のふたりの

ことを重ねてみる。

身体が出会っていなくてもたぶん、もう

それは出会っているのだと思う。

心に誰かが住んでいるっていうことは、

もう出会った証なのだ。

寂しくなるのはたぶん、気持ちがすれちがった

のかもしれないって感じる一瞬だけだ。

気持ちは時々離れたりくっついたりしながらが

ちょうどいいの距離感なのかもしれない。

そしてあの映画を見終わった後に思ったのは

何処かしらで生きているみんなそれぞれの

「いま」が幸福だったり、ちょっぴり

うれしかったらいいなって。

書きたいのに書けなかった手紙があるという

こと。

それはたぶん書けなかったけれど、心の中では

書いていたんだなって。

それは泡のようには消えないし、たぶん

心の中に住み続けるんだと思う。

イルマーレのあのふたりのように。

あなたの「いま」が、

あなたのままの「いま」でありますように。

そんなことばがいまふと浮かんでいる。

凍らせた 果物噛んで 夢語る舌
潮風に 吹かれるたびに 輪郭溶けて





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ゼロの紙 糸で綴る言葉のお店うわの空さんと始めました。
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊

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