あれから、君のいない余白を生きている。
白いってそれだけで余韻だねってだれかが言って。
聞いた耳が、きままにそうだねって思いながら、余白ってちょっとすきだなって思ったりする。
花火の後のみんなで空をみあげた夜。
花火と花火の間のちょっとした凪だって、
もしかしたら、余韻だし。
絵の中の空間も、ことばとことばのすきまも、ぜんぶそうかもしれない。
白いシャツ、透き通ったガラスの器のなかのバニラ、前のページまでぎっしりと字が埋まっていて、なにか続くんだと思ったら次のページはまっしろで。
それもあるいみ余韻。
とても答えにくいけれど、決して、答えたくないわけではないときの、誰かの問いかけのあとのあのスペースも思えば、白い時間なのだ。
わたしはあの問いかけにそっとファスナーを
つけてみる。
その問いはまだわたしにはうまく答えられないから。
眠る前、スイッチぜんぶを消して待機電力のためのデジタルめいた緑色が暗い部屋に光るあれも、日常の余白だし。
それでと。
死んでしまったひとたちは余韻のなかで生きているとしたら? って思いながら。
それはちがうのかもしれないって、思い直す。
それはたぶん、生きている人の感覚なのだ。
すきだったこの世界にいない誰かを思うとき、それはさっきまで会話していた躍動感に満ちている。
今日の最後の洗い物、コップなんかをきれいに洗っている時。
そういうえば、あの人はいなかったんだってことに気づいて、すこしたじろぐ。
<やどっていたものが去ってゆく。
それはだれのせいでもないように思えた>
木皿泉さんの言葉を昔教えてもらった。
折に触れてあたまのなかでそのことばが巡っている。
あの日の問いかけにつけたファスナーをいつか開ける時そばにきみが居てくれるといい。
ね、だからあなたのいない余白を生きるって、なんだか白い。
🎆今日は猿荻レオンさんの素敵な企画に参加しています!
ファスナーフェスっていいなぁ。
とってもカッコいい企画をありがとうございます!
とってもたのしかったです🎆