映画『ラ・ラ・ランド』
その頃は足繁く劇場へ通っていて、月の真ん中頃になると気に入った映画は観直したりして、次に公開作品が入れ替わるまで観るものがなくなってしまうほどだった。さすがに思いっきり子ども向けの映画等は観なかったけど、かなり果敢に偏食しにいっていた憶えがある。腰の落ち着かない鑑賞スタイルには一応わけがあって、なにを観ても自分がどんな映画が好きなのかいまいちピンとこない寂しい時期だった。
それで本編にさして興味もない映画の宣伝のほうに寧ろ集中していると、必ず『ラ・ラ・ランド』(2016)がトリだった。激推しされていた。初めのうちは鬱陶しくて興味がわかなかった。ミュージカル映画も今ほど好きじゃなかったし。でも広告の作用は絶大で、いつの間にか公開日を待ち望むようになった。
『ラ・ラ・ランド』は公開日からそう経たないうちに劇場へいった。これで僕もミュージカル映画の魅力に取り憑かれるかもしれない、とか、ある程度の期待に胸を膨らませながら。
そのときなんの予告が流れていたか憶えていない。きっと話題作目白押しだったに違いない。でも憶えていない。
本編が始まると、いきなりあの高速道路(ハイウェイ)のシーンだった。タイトルがどんと出るところまでにすっかり景気のいいパンチを打ち込まれ、気分は高揚していた。ところが、観ているうちに、今目の前で展開されている場面が面白ければ面白いほど、少しずつ不安が過ぎるようになった。
「あれ、予告で散々流してたシーン、つまり"観たかった"シーンがのっけからの流れでどんどん終わっていく。このペースで大丈夫…?」
まぁ黙って行く末を見守ることしかできないんだけど。
それでほんとうに見どころとなるような派手なシーンはどんどん過ぎ去って、主役のふたりの仲が怪しくなってきてしまった。
ふつうこの辺りに、オペラだったら聴き所となるような切ないアリアがきたりするんだけど、ミュージカルは違うのかな。わからないけどとにかく、全く歌わないし踊らなくなってしまった。映画の終盤に差し掛かる頃にはもう"ミュージカル"という体裁を忘れてしまっていた。その頃の少し前の自分とリンクした物語の内容に呑み込まれてしまったらしい。ふたりの行く末にただ没頭し、見守っていた。
ラスト、劇中で数年時間が空いて、ある顛末が映画的にクールに提示される。そこからの流れでセブ(ライアン・ゴズリング)の店をミア(エマ・ストーン)が訪れ…。だめだ、ネタバレは避けられない。お話としては顛末を知っていてどうというものではないと思うけど、とにかくネタバレを嫌う人もいるので、もう公開から随分経つけど、うまく自己判断してもらうとして。
つまり、「ある顛末」とは、ふたりが結局なんらかの理由で別れてしまい、ミアは女優として成功し結婚して子どもも授かっている。セブは夢だった"ジャズを演奏する"店を構えていて、そこへ偶然ミアと夫が入ってくる。
ステージのセブを、愛する夫の隣で見つめるミア。セブもミアが座っていることに気がつく。数年振りの唐突な再会。店は盛況で満席に見え、多くの人がいて、ステージ上にはバンドもいる。そんな中で、一瞬間見つめ合うふたり。一気に花が開くように、そこから渾身の"ミュージカルシーン"が展開される。ここは場面も音楽も素晴らしくて、涙を流しながら観たし、今も必ず込み上げるものがある。
それには理由があって、僕はこのシーンの意味が"とても大切なもの"そのものの提示に感じられたというか、そういうものの具現化だと思ったからだった。
僕はこの渾身のミュージカルシーンを、安直な「ふたりの刹那的な未来の妄想」とは思わなかった。そこで立ちかえったのが、デイミアン・チャゼル監督の前作『セッション』(2014)における鮮やかな幕引きと、一部論争を巻き起こした、劇中の"装置としてのジャズ"という観点。僕が想像するデイミアン・チャゼルという監督は、彼の持つ映画という概念・現象そのものを鑑賞者へ届けようという意欲に常に燃えている熱い男だ。
ミュージカルとは、映画とは、一体誰になにを見せてくれているのか。
それは紛れもなく観客であり、視聴者だった。僕たちに、僕たちが願う"夢"を見せてくれるのが、映画でありミュージカルなのだ。
セブもミアも後悔はない様子で、お互いの空白の健闘を讃え合い、当時のふたりの時間があったからこその今の幸せに、お互いが満たされる。物語を冒頭から観ていた僕はもちろんセブとミアの未来を期待していたけど、この幕引きが残念なものだとか悲しい結末だとは思わない。確かな愛を描いた映画であり、ミュージカルとは、を正面から問いかけるような映画でもあった。やっぱりミュージカルったって、ただ歌って踊ってればいいわけでもないわけで。