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魚に恋する。

「好き」とは何だろうと考えてみる。
  
 最近はあまりやらないが昔、釣りが好きだった頃、なぜ釣りが好きだったのか考えると、釣りというのは、長い長い釣れないもどかしい時間も本命の魚が釣れた一瞬もずっと非現実的な時間を過ごせるから、だったように思う。
 釣りという行為は狩猟でもありゲームでもあるから、目標に向かって、本命が釣れるまで「ああでもないこうでもない」と戦略を立て続ける時間を過ごすことになるのだが、本当のところ思考する脳味噌の半分くらいは空想の世界に浸っている。 
 
 詩人の佐藤惣之助が書いた『釣れない時 君は何を考へるか』という掌編があって、そこにも同じようなことが書いてあった。
 (この文章は、われわれ”ファンテエジスト”が釣れない時、いかに空想に耽るか、浮かんでは消える泡のような妄想や無意識を短文で連ねている詩でもあって面白い)

 ものすごく気取った言い方をするなら「釣り」と「恋」は似ている。
 もっと品のない言い方をするなら「釣りの欲求」と「性欲」は本当に似ている。

 ”どうも魚といふものは千古の美人であって、古書や古画の中のまぼろしでもなく生きて私達にまで性の神会を再びほうふつせしめてくれるものであるやうに思へてくる”

 これもまた佐藤惣之助の『魚美人』という一篇からの引用で、この文章は魚がいかに美人で、釣りがいかにその美人を相手にする”魚情に惚れ”る行為であるかということを書き綴った文章なのだが、釣り好きな人にはきっとすごく共感できるはずだ。
 (また釣りに興味がなくても、魚を題材にしているだけで性癖や性感の話、変態的で官能的な文章なので面白いです。「魚相手に何言うてんねん」って言いたくなります)

 同じような話。
 最近、テレビの『クレイジージャーニー』で怪魚釣り師の小塚拓矢さんが出演していた。
 世界中の秘境で釣りをしてきた怪魚ハンターの小塚拓矢さんの今回の旅の目的は、ただ怪魚を釣るのではなく「情報もなく、誰にも頼らず、極寒のカナダの湖でレイクトラウトを釣る」というものだった。
 最近、普通の怪魚釣りでは興奮できなくなったため、ゲームでいう”縛りプレイ”を課して臨みたいのだという。

 ”世界の怪魚釣り”というジャンルは、小塚さんや先人たちが開拓した功績ゆえに、情報は溢れ、道具も普及し、怪魚を釣る難易度は下がってきたらしい。つまり手探りで挑戦する時代に比べると、費用さえかければ何とかなるジャンルになったのだろう。
 だから経済的にもノウハウにも恵まれ、経験も豊富になったことで釣りに対して”不感症”になったという小塚さんは、金もなく情報も少なかった頃の情熱を取り戻すためにあえて”縛りプレイ”をしたがる。
 これを受けてMCのダウンタウンの松本さんが「今の(地位も金もある)立場で女性にモテるよりも、何もない状態でモテたいという気持ちなら共感できる」というようなことを言っていた。

 やはり釣りと恋は似ている。
 ただ、この「青春を取り戻したい」欲求というか「ありのままの俺と相対してくれる魚(あるいは恋人)と出会いたい」という欲求について、すごく共感できるのだが、はたして本当にその対象のことが”好き”なのだろうかという疑問も浮かんだ。
 これは”光源氏”的欲望ともいえる。
 光源氏という男があれだけ女好きでいながら「あれ?この男ほんまは全然目の前の女のこと好きやないんちゃうか」と感じさせてしまうように、本当に”好き”なのであればそもそもそんな欲求が湧かないのではと思うのだ。

 これは世界を旅する怪魚釣り師ではなくてもいい。例えば毎年毎年、夏は鮎、春秋は渓流魚を求めて何年何十年と釣りをしている人たちは、そんな”不感症”になるということがあるのだろうか。たぶんそんなことはないような気がする。 
 
 そんなことを考えていると、結局この文章の冒頭に行きついて、「〇〇を好きになる」「〇〇を好く」ということは、その対象に接していないときや追い求めているときも、その対象に接しているときや得たときも、そのどちらの時間も非現実的な時間として過ごせる、ことなのかもしれない。
 本当に好きならばそこに現実的な思考が介入してこないのか、現実が介入するから好きではなくなるのかはわからないが、「なぜ好きなのか」「なぜ好きではなくなるのか」という疑問を言語化し始めると、それが現実的な思考に繋がって情熱が冷め始めるのではないか。

 前述の不感症にならないであろう釣り人は不感症になる前に無意識に不感症にならないような何かしらの手段をとっているのだろうし、小塚さんのように”不感症になった”という言葉が脳内に浮かんだ時点で『クレイジー・ジャーニー』の旅のような荒療治をしなければならなくなる。

 何年も前に、小塚さんが何かのイベントで話している動画があって
 「どうして怪魚を釣りに行くのですか」
 という質問に
 「童貞を卒業したあの瞬間をもう一度味わいたいから」
 と答えていて、これも釣り人の共感を呼ぶ言葉なのだろうが、そんなことわざわざ言葉にする必要がないように感じたのを思い出した。言語化する能力が高い人、言語化するのが好きな人は大変なのだろうなと思う。

 もっと前、十年以上前に、『情熱大陸』に小塚さんの先達である怪魚ハンターの武石憲貴さんという人が出演していた。
 『情熱大陸』のこの回がめちゃくちゃ好きで、口数の少ない男がほぼ釣りをするだけなのだが、なぜか泣ける回で当時何回も見た。
 日雇いのバイトでお金を貯めては世界の魚を求めて旅をする理由を「嬉しいのは一瞬で、すぐに次を求めてしまうんです。強欲なんです」と武石さんが呟くように話すシーンがあった。情熱の理由としてこれ以上の言葉はなく、これ以下の言葉はないような答えで、すごく印象的だった。

 「対象のどこが好きか」はさておいて、「なぜ好きか」は無闇に突き詰めて言語化しない方がいいのかもしれない。

 

 
 

 
 
 


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