『バタフライ・エフェクト』を観て、時間について考える。

 先月、親戚でゴルフをした。私がゴルフ初心者を自称してから2年になる。その間、練習もしていないので、なかなか上手くならない。ただ、それでも少しはうまくなり、ラウンドが終わると一人反省会をできるレベルにはなった。「ティーショットがうまくいけばよかった」とか「あのパットを決めればパーだったのに」とか。ただ、どのホールもティーショットがうまくいけば、アプローチで失敗したり、アプローチがうまくいってもパターは失敗したり。ロングパットを沈めても、そのホールは池ポチャしていたりと、どのホールも満足できる完璧なプレーは出来なかった。反省会でああだこうだ考えているうちに、ふと映画の『バタフライ・エフェクト』を思い出した。何度過去に戻り、ある時点で歴史を書き換えても(良いショットを打てていても)、結局満足できる未来は訪れない。それなら開き直って楽しくやった方が良いと、急激に前向きになれた。
 『バタフライ・エフェクト』とは2004年にアメリカで公開された映画で、監督はエリック・ブレス、主演はまだ若き日のアシュトン・カッチャーの異色サスペンスであり、切ないラブストーリーだ。

私は、オールタイムベストを聞かれると必ず『バタフライ・エフェクト』と答えている。初めて観たのは高1の夏のカナダ修学旅行の帰りの飛行機であり、それ以来10数回は観ている。この映画で得られる教訓のいくつかは、なかなか中毒性の高いもので、一度映画を観ると、普通に生活していても先程のゴルフの様に、映画のワンシーンを思い出すようなことは往々にしてある。
 私がこの映画でテーマであると思う点を、そして、自分がなぜこの映画が好きなのかを、これを機会に文章化することで理解してみたいと思う。

 そもそも、この映画を知らない人に説明する上で、単純なあらすじを記す。(観たことがある人は読み飛ばすことを推奨します)


 極めてシンプルに言えば、主人公のエヴァンは幼馴染で最愛の人であるケイリーの自死をきっかけに、過去のいくつかのターニングポイントに戻り、やり直しを試みるというものである。
 ある時点で記憶が飛んでしまうブラックアウトを頻発させていたエヴァンは、その症状が現れた7歳から日記をつけている。ショッキングな事件が起こると必ずブラックアウトしてしまい、エヴァン自身は何も覚えていない自分に苛立ち、自己嫌悪する。自分のことなのに、わからないというストレスを抱え続ける困難や、凄惨な環境下で道を踏み外してしまったケイリー達との付き合いから、母親は引っ越しをする。凄惨な環境からケイリーを残して自分だけ離れてしまうことに、エヴァンは背徳感を覚え、「必ず君を迎えに行く」とメモ書きをして、街を去る。
 街を去ってからはブラックアウトもなく、通常の大学生活を送るエヴァンであったが、ひょんなことからかつての日記を発見し、日記を読むと過去に戻ることができるという現象に気づく。過去を思い出したエヴァンは数年ぶりにケイリーを訪れ、かつての話をする。しかし、エヴァンが過去について話しているうちに、ケイリーが父親から性的な虐待を受けていたというトラウマを思い出させてしまい、そのショックでケイリーは自殺してしまう。責任を感じたエヴァンは日記を読むと、過去に戻れるという特殊な現象を駆使して、何度も過去に戻ってやり直しを図る。
 過去の時点での微妙な入力な違いが、現在、ひいては未来において大きな出力の違いとなって現われ(これは題名にもなっているバタフライ・エフェクトそのもので、ジェイムズ・グリックの「北京で1匹の蝶が空気をかき混ぜれば、翌月のニューヨークで嵐が一変する」というカオス理論の一部である)、理想的な現在を造り上げる為、ケイリーを救う為にエヴァンは奔走する。
 エヴァンは何度も過去に戻るが、完璧に過去の入力を変えたと思っても、常に出現するのは「ままならない現在」である。
ケイリーを救うことは出来たが、ある時は自分が殺人を犯してしまい投獄される「現在」や、自分は良い生活をしていてもケイリーがやはりドラック漬けの売春婦になってしまう「現在」。そして、自分以外の人は救うことが出来たが、自分は五体不満足となり、母は喫煙による肺がんを患うという「現在」。
 何度、過去の入力を変えても、出力されるのは「ままならない現在」でしかない。エヴァンは最終的に、完璧な現在を諦め、ケイリーと決別することを心に決める。ケイリーと初めて会った日のホームビデオを見ることでケイリーと出会う瞬間に戻り、暴言を吐くことで、その後にケイリーと自分の自分が交わることがない現在を造り上げる。それは、エヴァンが苦しみながらも出した結論であり、エヴァンはそれを最後に過去に戻る手段となる日記やホームビデオをすべて燃やし、その現在に永住することを決める。
数年後、エヴァンは都会の雑踏の中でケイリーを発見する。その時、エヴァンを知らないはずのケイリーがこちらを振り返る。ケイリーが振り返るのをやめた瞬間に、今度はエヴァンが振り返り、エヴァンは雑踏に消えていくケイリーの背中を見て、映画は終わる。

 私は、この映画の主題は「時間とは何か」という問いにあると思う。

 エヴァンは何度も過去に戻ることが出来るが、結局生み出される現在は、どこかうまくいかない、「ままならない現在」なのである。この映画では、仮に過去に戻ることが出来たとしても、人間は「ままならない現在」を生きていかねばならないということを伝えることで、「ままならない現在」に直面している人に勇気を与える内容でもある。
 同時に、エヴァンは現在に永住することを決めた時に、「自分とは何か」という根源的な葛藤に終止符を打つ。記憶が時折途切れるブラックアウトを頻発していたエヴァンにとって、自分は自分にすらわからない得体のしれないものであった。そんなエヴァンにとって、唯一自分とは何かを教えてくれるものは日記や写真であった。エヴァンが日記を読むことをルームメイトに制止された時に日記を握りしめて「(これがないと)俺には、俺がわからないんだ」とヒステリックになるシーンと、ラストで日記や写真を燃やす時にエヴァンが冷静に言う「俺は俺を知っている。自分が何者かを思い出させるものはもう必要ない」というセリフは良いコントラストである。エヴァンが過去と決別する時、同時に「自分とは何か」という葛藤とも決別する。
 この一連のストーリーは、実は遠回しに「時間とは何か」という問いへの答えを示している。この「時間とは何か」における考察の大半は岸田秀の『ものぐさ精神分析』からの引用となるが、岸田は著書の中で、時間とは「悔恨に起因する人間の発明」であると断言する。この時間に関する考え方は、『バタフライ・エフェクト』における時間についての考え方を理解する上で、非常にわかりやすい示唆を与えてくれる。

以下、岸田の時間論を引用する。

 時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する。時間と空間を両軸とする我々の世界像は、我々の悔恨と屈辱に支えられている
(中略)
 無意識において、時間が存在しないことをフロイトは発見した。無意識では一切矛盾がなく、抑圧がなく、全てが可能であり、空間も障壁もない。意識において、はじめて時間があらわれる。人間が時間を知り、歴史を持つようになったのは、抑圧する動物だからである。
人間以外の動物の本能は現実に密着しており、本能の満足は個体保存または種族保存の為に絶対に必要不可欠であって、逆に言えば、動物はそのように必要不可欠な本能しか持ち合わせていない。人間は、本能と現実が分離している。だからそこに抑圧が発生する。そして、抑圧するかしないかはいわば決断の問題であって、ある欲望を抑圧したとき、つねにその欲望を抑圧せずに満足させることができたかもしれない可能性はあったのである。ここから悔恨が存在する。この悔恨がわれ笑の関心を満足されなかった欲望に縛り付ける。そして我々はその欲望を抑圧した時点を過去と設定し、その過去と、それと異なる時点としての現在、つまりその欲望を満足させることが出来たかもしれないチャンスを失ってしまった時点としての現在との間に時間というものを構成した。実際、あらゆる欲望が満足されているならば、どうして過去と現在を区別できようか。
 (中略)
 人間はアナクロニズム的な存在である。それゆえに、時間を発明したのである。満足されなかった欲望を媒介として過去が絶えず現在に割り込んでくる故に、現在と、現在の中に割り込んできた過去とを区別する必要があるのである。時間を秒単位で分節化するのは、過去に侵食されることを恐れ、過去のある時点はあくまで過去であって現在ではないことを確認しようとする強迫神経症的症状のように思える。過去が過去として充足し、現在が現在として充足しているのであれば、そこに時間が入り込む隙間はない。われわれは、常に過去にくぎ付けになっており、過去をもう一度やり直したがっており、そして、過去をもう一度やり直すチャンスが得られるかもしれない時点として、過去から現在へと流れる線の延長線上に未来という時点を設定したのである。未来とは、修正されるであろう過去である。死を言い渡された人間の絶望は、過去の修正可能性を失ったことによる絶望である。死の恐怖を知るのは、抑圧する動物たる人間のみである。
 (中略)
 記憶とは、想像力の一形態である。我々が生まれてから何年かの記憶がないのは、それが抑圧をしらない時期であったからである。抑圧を知るとき、人は時間の中に組み込まれ、想像力を持って過去を憂う。
 時間は想像力における発明であるゆえに、ある時点における行為は、一つの絶対的な事実であり、別の時点におけるいかなる行為との間で等式が成り立たない。江戸の敵を長崎で討つことはできない。復讐が過剰になりがちなのも、恩返しに限界がないのも、過去と現在、そして未来の行為すべてが絶対的事実であるゆえに、埋め合わせが不可能であるからである。


 この文章を読んで気づくのは、我々が犯す「原因と結果の取り違え」というミステイクである。

 人間は、「過去を憂う」のではなく「憂うことで過去を創り出す」のだ。


 ここまでくると、この映画を理解する手段が揃う。エヴァンにとって、日記や写真とは、「憂う」為の装置であり、エヴァンが日記や写真を燃やす時、エヴァンは過去を創り出すことを止めたのである。人間は過去への憂いをもって時間に組み込まれるとするならば、エヴァンは憂いを捨てることで時間から解放されたのである。
 その時、同時にエヴァンは自分を知る。それは、人間が時間を生み出した本能と現実の分離を超克した瞬間であり、葛藤の終焉である。自分の中に得体のしれないものがいるという恐怖や葛藤からも、エヴァンは解放されたのである。過去と決別し、「ままならない現在」に永住することを決めたエヴァンが、自分とは何かという根源的な葛藤から解き放されたのは、それらの問題が同じく抑圧に起因するものであったからなのである。

 主題については、以上だが、この他に映画的に好きなシーンがいくつかある。

 一つは、やはりラストシーン(実際に公開されたカット)である。このシーンは観客を幸福な謎で包み込む。謎とは勿論、エヴァンを知るはずのないケイリーが、一度振り返ることである。何度も過去に戻り、ケイリーを救おうとしたエヴァンが気づくのは当たり前である。しかしながら、ケイリーが振り返ることは理屈では説明できない。それをどう説明するかは観客に委ねられている。観客は、その幸福な謎の中で、余韻に酔いしれる。
 これは私の解釈だが、この謎の答えは「縁」にあると思う。ケイリーが振り返るのは、まさしく縁によるものであり、ケイリーが運命の女(ファムファタル)であることを意味している。そして、日本には「袖振り合うも他生の縁」という言葉があるが、この言葉がまさしく最後のシーンとぴったりと符合する。雑踏で袖振り合う人も、前世でなんらかの繋がりがあるということを意味する言葉だが、エヴァンが過去に戻ることを前世と表現するかは微妙だが、このシーンに「縁」を見出すことは難しくない。すれ違う二人は、前世で並々ならぬ縁があったことは言うまでもなく、すれ違うそれ以外の人とさえも、実は同じように前世で何等かのつながりがあったのかもしれないと考えると不思議な気持ちになる。
 さらに、これだけ縁が深く、運命の女でさえも、やはりすれ違い、別の道を行くということへの諦念も感じる。最後に、ケイリーとエヴァンは言葉を交わすことはない。去り行くケイリーの後ろ姿を見た後に、前を向き、永住すると決めた現在を歩んでいくエヴァンの表情は、悲しさと前向きさが混在している。これもまた味わい深い。

 もう一つは、ドラック漬けの売春婦になったケイリーに、エヴァンが他の世界線では付き合っていたことを証明するために、恋人にしかわからないケイリーの特徴を列挙する時である。これは、『恋人たちの予感』(1989年、ロブ・ライナー監督、ビリー・クリスタル/メグ・ライアン主演)のラストシーンとの悲しきコントラストであり、オマージュではないかと感じた。

エヴァンは、自分が別の世界線から来たこと、別の世界線では幸せに暮らしていたことを信じないケイリーと会話する。

「腿の後ろに二つホクロがある」
「客ならだれでも知っているわ」
「君が花の匂いよりスカンクの匂いが好きだということ。腹違いの妹を思い出すから、コリアンダーが嫌いなこと。絶頂に達するとつま先がしびれること。客ならだれでも知っているだろう?」

このシーンは、『恋人たちの予感』のラストでビリー・クリスタルがメグ・ライアンにプロポーズする時の言葉に似ている。

突然プロポーズされて状況を理解できないメグ・ライアンに、ビリー・クリスタルはこう告げる。

「気温が22℃になると寒がる君が好きだ。サンドイッチの注文に1時間半かかる君が好きだ。僕を見るとき鼻にちょっとしわをよせる君が好きだ。君と一日を過ごした時、僕の服に君の香水の香りが残っているのも好きだ。夜眠る前、一日の最後におしゃべりしたいのは君だ。」

 どちらも、他の人なら知るはずのない、愛する人の癖や特徴をいくつも挙げているシーンだが。後者は結ばれるが、前者では、掃きだめの様な状況の中で、結ばれることのない現実をありありと表現している。セリフが似ている分、前者と後者の違いがくっきり判り、この映画における悲哀を際立たせている。

 いささか散文的になったが、この映画は見るたび、人と話し合うたびに新たな発見がある。この先の人生でも、私はこの映画を見るたび、新しいことに気づくだろうし、今を生きる事の大切さを常に感じると思う。私たちは過去に戻れない。なぜなら、過去は私たちの後悔が生み出した発明品だから。私たちは今を前向きに生き続けなければならない。過去の清算が、今を止めてしまう前に。

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