清春芸術村に行った話
外出自粛の4連休、すっかり引きこもり生活が染み付いてしまい自宅で快適におこもりしている。今日は、少しずつ集めたアロマオイルを並べて、消毒用のスプレーとアロマオイルスプレーを作ったりなんかした。で、まあこうやって手を動かしてると基本的には無心になるのだけれど、香りを嗅ぐと、ふとその香りが漂っていた昔に意識が飛んでいくことがある。
ふと思い出したのは、2年前のちょうど7月に清春芸術村行った時のこと。
山梨県北杜市にある白樺派の美術館や建造物がある場所。緑の中に転々といくつもの建物があり、この写真の建造物がとにかく素敵だった。ぐるりと円形の形をしていて、一つ一つの部屋がメゾネットみたいなつくり。昔はこの一部屋に一人ずつ作家や画家が住んでいたらしい。窯もあり、陶芸家がいたそう。吉田直嗣さんの器が売られていて、黒い丸い平らなお皿を一つ購入した。
(こんな感じ↓)
晩酌のつまみをのせるのにも、ブランチのパンをのせるのにも、どんなものもすぐに美味しそうな顔つきに変えてくれるお皿で、重宝している。
芸術村の中には、安藤忠雄が立てた教会があったり、ツリーハウスのような茶室も。満開の桜の中に佇む茶室は圧巻だった。
この頃は、アートも藝術も一緒くたに同じものだと思っていたのだけれど、最近ハマっている和樂さんの音声コンテンツで民藝についての話を聞いてから、少しだけアートと工芸(民藝)の違いとか、日本における本当の意味でのアートが始まったのは現代からだということなどを認識。
アートというのは、純粋な自己表現であり、道具になるとか暮らしのなかの必需品という立ち位置ではないもの。(アート自体こそが暮らしの必需品、という話は置いておいて、用の美ではないという意味)一方、工芸・民藝(藝術)は、用の美。例えば欄間の飾りなども、扉という必要な道具を装飾したもの。そこまで装飾する必要ある?という精巧なものもあるけれど、あくまで道具であることが、西洋のアートとは一線を画しているらしい。で、民藝というのは、作家性の無い、市井の人たちが作った作品に美を見出す思想そのもののことのよう。白樺派は、その思想を提唱して広めていった活動家たちの集まり。
清春芸術村の始祖をたどると、民藝運動から離脱したはずの白洲正子もメンバーに入っていたりして、まだまだそのあたりのことは勉強が必要だけれど、「作家性を強く持たず、市井の人たちの作ったものの美」を大切にしようとする考え方は、なんだかぐるりと回って、今の時代にすごくあっているなあと思う。
そんなこんなで、Vetiver(ベティバー)という土の香りのするアロマオイルを嗅ぎながら、土の香りの真っ只中に広がっていた清春芸術村の思い出が脳内にも広がったのでした。
最後に私が聞いた和樂の音声コンテンツのリンクを↓