仏像と私~私の好きな仏像編番外・運命の人~
こんばんは。
ひそかに目標としておりました、このnoteの連続30日投稿。
今回で達成となります✨
というわけで、記念すべき回は、やはり大好きな仏像のお話で。
「仏像と私~私の好きな仏像編」をさらに番外としまして、私が最も「運命」の仏様だと感じている仏像について、お話し致します。
それはこのお方。
奈良県桜井市は「聖林寺」におわす「十一面観音立像」様であります…!
運命と申しましたが、実はこの時の仏旅もまた、当初はこの仏様がお目当てではなかったのです。
では、聖林寺「十一面観音立像」様と私の出会いの物語。
よろしければご一読ください。
※トップ画像に適した画像がなく、旅の途中で見た美しい「桃」と「菜の花」のコラボレーションをイメージして…。「絵描きのそざいや」さんによる写真ACからの写真です
1、さて、まずは「聖林寺」について
2、聖林寺「十一面観音立像」
3、出会いのきっかけ
4、衝撃
5、仏像の保存について思うこと
1、さて、まずは「聖林寺」について
「聖林寺」は、奈良市から南に約25kmほど離れた桜井市の中でも南の方、小高い丘の上にある、小さな寺院です。
創建は奈良時代の712年(和銅5年)と伝わりますので、とても歴史の古いお寺。談山妙楽寺(現・談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧上人(藤原不比等のお兄さんです)が建立したとされています。
数度の火災で伽藍等が焼失してしまいますが、江戸時代中期に、同じく桜井市内にあり、全国的にも名高い「大神神社」の神宮寺の一つ・平等寺の玄心律師という僧侶が再興しました。
お寺の名前は「遍照院」と称していましたが、享保年間(江戸時代、1716~1736年ごろ)に妙楽寺の大僧正であった子暁によって「聖林寺」と改められました。
ちょうど同じころ、聖林寺の僧侶であった文春という人が、女性の安産を願うため、大石仏造像の願をかけて諸国行脚にでます。4年半以上の長きにわたり旅の途上で托鉢を行って浄財を集め、現在のご本尊である「子安延命地蔵菩薩」の建立が叶ったということです。そこから、安産・子授け祈祷の寺としても広く知られています。
2、聖林寺「十一面観音立像」
この聖林寺の国宝「十一面観音立像」もまた、国内の仏像の中では大変有名な部類に入ります。
きゅっと引き結んだ口元、細いながらも叡智の光が奥から放たれるような両眼。ふくよかな肢体は優美な線を描きながら、力強さも感じさせます。
もとは、大神神社の神宮寺の一つ、「大御輪寺」のご本尊でしたが、1868年(慶応4年)に発布された神仏分離令による廃仏毀釈からお守りしようと、聖林寺に移され、秘仏とされていました。
その後、法隆寺夢殿の封印を解いたことでも知られる美術研究家で哲学者のアーネスト・フェノロサによってその禁を解かれ、私たちの眼前に再びお姿を現すこととなったのです。
像高は209.1cmの木心乾漆像。その美しさは西洋彫刻の「ミロのヴィーナス」とも比較され、フェノロサを始め「古寺巡礼」で知られる和辻哲郎などが褒めたたえ、作家・白洲正子が愛した仏像としても知られています。
3、出会いのきっかけ
もともと、この「十一面観音立像」もいつかはお会いしたい仏様として、長年恋焦がれてきた仏像ではあったのです。
ですが、桜井市はやはり、このために時間を掛けなければ行くことのできない範囲。思いだけを募らせておりました。
ところが、桜井市をひょいと飛び越しさらに東へ、もはや三重県との県境に近い「室生寺」を訪ねることになったのです。
この「室生寺」の回、なかなかの珍道中であったので、別の回でこの時の仏旅はご紹介いたします。
ともあれ、「室生寺」に行ったは良いのですが、あまりに遠い山の中、乗り継ぎのタイミングが合わず、大幅に時間を余らせることになりました。
観たいものの半分ほどしか観られなかった旅に意気消沈し、電車内でふと見上げた路線図。そこには「桜井駅」の文字が!
桜井市と言えば、「聖林寺」ではないか!
そうして、気づいた時には、「桜井駅」のホームに降り立っていました…(笑)。
4、衝撃
桜井駅からは、「聖林寺」はおよそ3km。季節はまだ雪解けもまばらな早春でしたが、そこまで寒い日ではなく、時間もあったので、てくてくと歩いていくことにしました。
奈良は、なぜだか歩きたくなるのですよね。
どこか懐かしい風情のある道を進み、見えてきた山門。思いもかけず小さなお寺でしたが、柔和で、来るものを容易に圧倒しない雰囲気が好ましく感じます。
小高い丘にあるお寺まで、ちょっとした坂道を上り、さらに石段を上がると、淑とした気品のある庭が出迎えてくれます。
拝観したい旨を告げ、示されたコンクリート造りの収蔵庫へ。
階段を上がり、入り口を入ると。
すぐ眼前に、そのお方は立っておられました。
お寺の案内によると、収蔵庫は「この『十一面観音立像』のために1959年(昭和34年)に建立された、日本初の鉄筋コンクリート造りの収蔵庫である」とのこと。
収蔵庫はまさにこの仏像一体をすっぽりと包むよう。ほとんど空間に無駄のない構造です。一体の像と拝観者がじっくり向き合うのにこれほど適した空間は、私にとっては初めてでした。
そして、そのお姿を眼前に捉えた瞬間、なぜか私はまるで雷にうたれたかのように動けなくなってしまったのです。
凛とした佇まい、何にも揺らがない意志と厳かな慈愛に満ちた瞳が、私を見下ろしていました。
気圧されたというのではなく、圧倒されたというのではなく。
ですが、ぴくりとも動けなくなり、座り込んだままひたすらそのお姿を見つめていました。
ふと我に返って時計を見ると、なんと30分も像の前に座っていたよう。
この時の体験を、今でもうまく言葉にできません。
ところどころ箔が剥がれながらもなお美しかったのですが、その「美」ではなく、何とも言えない共鳴のようなものに心引かれた。
そんな気がしています。
石段を下りる時も、なおその眼差しが見送ってくれているように思えて、何度も振り返り、丘の上の寺院を見やりながら帰途に着いた私。
それから、勝手にこの聖林寺「十一面観音立像」様を「運命の仏様」と思い、以前よりもさらに憧憬の念を募らせております。
とはいえ、遠い奈良、そして遠い桜井市。そしてなおかつ今の状況。
二度目の来訪はいつになることやら…。
5、仏像の保存について思うこと
今回ご紹介した「十一面観音立像」も、かなり保存状態の良い方ではあるとはいえ、いくばくかの箔が剥がれたりはしており、表面の酸化が原因ともいわれる黒光りも表れています。
それはまた、重ねてきた歴史ゆえのことですし、そこに見いだされる「美」もまたあるでしょう。
一方で、このかけがえのない宝物たちを現状で保存するため博物館に収蔵したり、また修復を加えたり、近代システムの粋を凝らした収蔵庫が新たに造営されたりもしています。
それを「風情がない」と一蹴するお声を聞くこともありますが、いかに技術が進歩しようとも、その時代を生きた人々でしか生み出し得なかった「美」がそこにあり、だからこそ可能な限り後世に伝えたいという思いもまた確かなものであるはずです。
仏像に限らず、文化財の保存・保護とはどうあるべきなのか。
素晴らしい仏像や歴史の遺物に出会うたびに、こんな課題を私たちに問い掛けられているような気がします。
さて、実はこの「聖林寺」でも、私が訪ねた収蔵庫を新しく建立する計画が持ち上がっているようです。こんな締めくくりをした手前ではありますが、私は愛するこの仏様の保存のため必要なことであると思っています。
仏様のお姿をご覧になりたい方、また新収蔵庫建立にご興味のある方も、お寺の公式ホームページをご参照ください。
今回もまた、結果的に超弾丸仏旅になってしまったため、特別なお土産を購入しておりません💦
次回にはぜひご紹介いたします~!
では、お付き合いくださり、ありがとうございました。
また、仏旅にて。