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閑話休題~「異形のもの」について思うこと~

こんばんは。

今夜もまた、シリーズものとは遠く離れて、この世の中の由無しごとについて当てもなく話してみたいと思います。

今回は、「異形のもの」について。

なぜこのテーマかと申しますと、たま~にお目見えするシリーズ「恐竜が好き」(といいつつまだ2回)を書いておりましたときに、「ネッシー事件」のことを思い出しました。

イギリス、スコットランドの「ネス湖」で1934年に撮影された一枚の写真を発端に、世界中で「恐竜の生き残り」を探索する一大ブームを巻き起こした「ネッシー」。未確認生物の代表格として「20世紀最大のミステリー」と随分騒がれましたよね(若い人たちはきっと知らないはず。(笑))。

日本でも鹿児島県は池田湖の「イッシー」や北海道は屈斜路湖の「クッシー」がクローズアップされ、ミステリー好きな子どもたちの想像を否が応にも掻き立てる存在としてさまざまなグッズも販売されました。

ところが、1993年、突如、その騒動に幕が引かれます。なんと世間を騒がせたあの一枚の写真が「捏造」だったことが判明したのです。

首謀者の義理の息子さんが良心の呵責に耐えかねて、死の間際に告白したものでした。もちろん、撮影された周囲の状況(波の大きさなど)から、その信ぴょう性について早くから疑問視はされていましたが。実に半世紀以上もの間、人々はその幻を追い掛けてきたことになります。

とはいえ、もちろんそれが「恐竜の生き残り」の存在をすべて否定する理由にはなりません。世界中には人類がまだその底を覗いていない深淵なる湖がたくさんあります。

そのどこかに、もしかしたら「恐竜王国」が栄えているかもしれませんよね。(ああ、何だか、大長編ドラえもんシリーズの「のび太と竜の騎士」みたいな流れになってきました。(笑)。気になる人はぜひ読んでみてください♪)人間はロマンを失ってはおしまいです。

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初っ端から本題より大きくそれてしまいましたが…💦

今回の「異形」は、恐竜生存説など、いわゆる「怪獣伝説」ではなく、古くから、その存在を時に恐れられ、時に敬われ、時に忌み嫌われてきた「もの」たちのことです。

それは例えば、「鬼」であったり「河童」であったり。

妖怪の中に数えられることもあるものたち。

大学で文学を学んできたことや経験してきた仕事柄、こういったものの伝説が残る地を調べ、訪れ、土地の人たちに話を伺う機会がありました。

特に「河童」については、秋田県の遠野地方ほどではありませんが、私が住む県でも広い範囲に伝説が残っています。

中には「川で遊んでいたら、いたずらされたことがある」とか「家の裏が河童の通り道になっている」「自分のおじいさんが河童と相撲を取ったことがある」など、体験談も聞くことができました。

こういった体験に関しては、全国に分布する河童との遭遇譚にまさに共通するお話でもあるのですが、私が注目したのは、その「姿形」です。

「緑色の皮膚に亀の甲羅、頭には皿」というのが一般的な河童の姿。しかし伺ったお話では「緑の皮膚」「甲羅」などの表現はあまり出てきませんでした。いくつか出てきた表現が「赤黒い皮膚」「髪の色は稲わらみたいな色」というもの。(皿の存在はまちまちでした)

この時にふと、頭をよぎったのが、日本の「鬼」の代表格である「大江山の酒呑童子」と昔ばなしの「桃太郎」に出てくる「鬼」の異説です。

物語の中では「悪の権化」のように描かれる彼らですが、実はその正体は、貿易などで奴隷として連れてこられた外国人が逃げ出し、山中や離島などに隠れ潜んでいたもの、またその末裔たちではなかったかというものです。

特に「大江山の酒呑童子」については、「赤ら顔に金色の髪、瞳は青」と、西洋人のような風貌が伝承されていたという研究論文か何かをどこかで見たことがあります。

見たこともない肌や髪、瞳の色を持ち、丈高い彼らは、当時の日本人たちからすれば、まさに「異形」のもの(見た目は、ということですが)。

「自分たち(日本人)とは違う」というだけで、肉体的にも心理的にもきっと想像もできないつらい仕打ちにあった人たちも多くいたでしょう。

その人たちを虐げた事実を曲げて後世に伝えるため、彼らを「鬼」として、反逆する「悪の権化」に仕立て上げた。

歴史書はその時の為政者が都合よく編纂するものであることは周知の事実(たとえば「古事記」「日本書紀」の記述のように)だと思いますが、民間伝承であれ、それは同じことだったのではないでしょうか。

そう考えると、「河童」もまた、逃げ出した外国人またはその子どもたちだった可能性があります。

さらに私が思うことには、一つに「口減らし」などのために山に置き去りにされた子どもたちでもあったのではないかということです。

親に捨てられ、年月の中で容貌が変わり果てたものの、山の中で生きる術を身に付けて必死で生き延びた子どもたちだったのではないか。

時代を経るとまた、別の仮説も出てきます。

「平家の落人」や「隠れキリシタン」など、その時代に日の当たる場所で生きることを許されなかった人々。

彼らの末裔が、世を忍び生きていた姿だったのではないかと。

そこにいる多くの人たちと似通っていない、同じ思想を持っていないというだけの理由で排除された人々が、必死に生きていた姿だったのではないかと、私はそう捉えています。


現代でも、少数派である人たちが、多かれ少なかれ何らかの偏見や差別など不当な扱いを受ける事態を根絶するに至っていません。

けれども、本来、あらゆる生き物の間に「異形」という見方はあってはならないもの。私たち日本人だって、ほかの国々からすれば「異形」。

宇宙にあっても、私たちが「宇宙人」「異星人」と呼んで時に恐れている存在からすれば、私たちの方が「異星人」なわけですから。

せめてこの地球に生きる私たちが、どこの誰であれ、どんな理由であれ、偏見や差別など不当な扱いを受けることのない世の中を作ることはできないのだろうか。

きっと世界中の多くの人々が取り組んでいるこの課題。私もまた、出口の見えないこの課題に今夜も思いを巡らせています。


本当に取り留めのないお話になってしまいました💦

お付き合いくださり、ありがとうございます。

ではではまた。



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