腹は立てず気は長く人は大きく心は丸く
中村元一
今は亡き僕の祖父で、
長野県辰野町にあるお寿司屋さんの創業者です。
葬式の日、
外は立っていられないほどの暴風雨でした。
それでも、参列者は1000人以上。
会場から人が溢れるほどでした。
40代・50代のおじさん達が、
「親父、ありがとう。」と
祖父の亡骸に声をかけていました。
「人は死ぬときに価値が分かる」
というけれど、
じいちゃんの人望はどこから来ていたのだろう。
じいちゃんは多くを語らない人でした。
だからじいちゃんの人生については全く知らなかった。
気になった僕は母に尋ねてみることにしました。
今日のNoteでは僕の祖父、中村元一の生涯について綴ります。
少年時代
祖父は長野県で生まれ育ちました。
祖父が過ごした少年期は、
戦後、日本がまだ貧しかった頃です。
祖父は養子としてある家族の下に引き取られていました。
養子先ではひどく扱われ、親にも頼れなかったそうです。
貧しかっただけでなく、
家族からの愛も十分に受けられなかった少年期。
祖父はそんな環境に耐えられず、
中学校を卒業後、自分の力で生きていくことを決意します。
祖父は、自分自身で生計を立てていくために、
卵や松茸などを町で売り始めました。
松茸は今となっては高級品ですが、
当時は今ほど高価なものではありません。
山に登り、松茸をとり、売る。
それを繰り返す日々です。
最初は地元の人に売っていましたが、
稼ぎを増やすために東京でも売りはじめました。
長野と東京。往復の日々。
卵や松茸などを担いで夜行列車に乗り、
東京で売っては長野に帰ってくる。
長野で卵や松茸を採る。
また、東京へ行き、売る。
それを繰り返し続けました。
全て祖父一人でしました。
長野⇄東京を往復するうちに、
祖父に一つの思いが芽生えました。
「信州の人にも新鮮な魚を食べさせたい」
長野県は海に面していない内陸国です。
輸送手段も十分に発達していない当時は、
信州で海洋資源を取ることは簡単ではありませんでした。
そこで祖父は、
長野から卵と松茸を売りに行き、
そのお金で築地で魚を買い、
長野で魚を売る。
そんな日々を送りはじめました。
築地ではたくさんの人脈が出来ました。
例えば、祖父が卵を卸していた卵焼き店「丸武」
テリー伊藤さんのお父さんが経営する有名な卵焼き店です。
いつしか祖父は、
「信州の人にも新鮮な魚を食べさせたい」
が口癖になっていたそうです。
そしてもう一つ。
長野県では寿司屋がなかった。
寿司を信州の人にも届けたい。
祖父の思いは少しずつ実を結んでいきます。
いさみ創業
昭和27年、
辰野町柳町に間口2間・奥行き2間半の小さな店にていさみを開店します。
「信州の人に新鮮な魚を届ける」
そこに妥協はなく、
魚はすべて東京築地から取り寄せました。
仕入れもすべて祖父が担当。
いさみは3店舗になり、
店の規模はどんどん大きくなっていきました。
著名人も多く遠方から訪れるようになります。
弱い姿は見せない。
祖父は経営者としての腕は勿論でしたが、
懐や器の大きさこそが祖父の魅力でした。
自分のお金でマンションを建て、不良横行に走る若者を住ませる。
約束を破ったときには、連帯責任として全員を叱る。
ガンをわずらわったときは、
「地元で治療を受けるならおれは手術は受けない」
と言い張り、わざわざ県外で入院しました。
「おれの弱い姿は誰にも見せない。」
祖父は、従業員の生活だけでなく、
多くの若者や地域を支えていました。
多くの人に頼られる立場にいること。
その責任の重さを分かっていた祖父は、
一切の弱音も吐かず、
誰よりも大きな背中で周りに示し続けていました。
そんな強く逞しい祖父ですが、
毎朝布団を頭に被せ、考え込む時間を作っていたそうです。
ときに長く。
ときに短く。
祖父が何を考えていたのかは誰も分かりませんが、
人の上に立つということについて、
これほどにも向き合った人はいないと思います。
「裏切り」
尊敬され、慕われていた祖父ですが、
不遇にも、自分の愛弟子から裏切られることとなります。
祖父のお店で働いていた弟子がお店を出すことになりました。
祖父は弟子を信頼し、そのお店の保証人となります。
しかしながら、弟子の奥さんは自分の私欲のために散財。
お店の支払いは滞り、多額の借金を背負います。
そして、弟子とその家族は夜逃げ。
当然のこと、保証人となった祖父にその責任がのしかかりました。
山や広大な土地を持っていた祖父でしたが、
すべて売却。ほとんど無一文になってしまいました。
誰よりも人に尽くした人が、
最も信頼していた弟子に裏切られることになってしまいました。
そして今もその弟子の行方は分かりません。
祖父は傷を負ったままこの世を去ることになります。
祖父の死
「来年の春休み会いに行くよ」
一年前から祖父を訪れる日程を決めていました。
福岡から長野に出発する日の早朝5時。電話が鳴りました。
何か嫌な予感がしました。
「じいちゃんが倒れた。」
一年前から会うと決めていたちょうどその日。
祖父はこの世を去りました。
祖父の家に着くと、冷蔵庫の中に寿司が入っていました。
祖父が自ら魚を仕入れ、
祖父が最も信頼する弟子に握らせた、
一緒に食べるはずの寿司でした。
今まで食べた中で一番美味しいお寿司でした。
そして、祖父はいつでも人のことばかりでした。
祖父の言葉
祖父は僕に言いました。
「一生懸命学びなさい。」
祖父は母に言いました。
「子どもに学ばさせなさい。」
中学校を卒業し、家族にも恵まれず、
学ぶことができなかった祖父。
学ぶことの大切さは誰よりも知っていました。
孫である僕には「心ゆくまで学んで欲しい」と
お金まで残してくれました。
そのおかげで僕は学ぶことができています。
また人のことばかりです。
ありがとう。
遠くから見守っていてね。
最後に
祖父の寿司屋の湯吞みに書かれている言葉があります。
”腹は立てず 気は長く 人は大きく 心は丸く”
祖父ほどこの言葉が似合う人はきっといません。
「『何を言うか』でなく『誰が言うか』で言葉は力を帯びる」
きっとこれは間違っていないと思います。
僕はこの言葉を小さい頃から大切にしてたし、
祖父のことを誰よりも憧れていたはずなのに、
相変わらずの僕です。
まだまだこの言葉が似合う男にはなれていません。
イライラするし、人は小さいし、心はトゲトゲしてます。
もう一つ湯吞みに書いていた言葉があります。
人生は素晴らしきかな。
こんなに波乱万丈であった祖父の人生。
それでも祖父は誰よりもその人生を楽しみ、
幸せに過ごしているように見えました。
そして、祖父の周りにはいつも素敵な人が溢れていました
僕はまだまだ至らないことが多いし、
不甲斐なさを感じてばかり。
華々しい道を歩んできたわけではないけれど、
ぼくはとても幸せです。
たくさんの素敵な人に囲まれて生きています。
僕はみんなのために何ができているだろうか。
そんなことを中学生の頃からずっと考えているけど、
まだ分かりません。
それでもそれを探すことはやめたくないし、
この一度きりの人生を歩み進めていく中で、
僕に関わる一人でも多くの人が、
幸せになってくれたら僕は嬉しいです。
”腹は立てず 気は長く 人は大きく 心は丸く”
この言葉が似合う人間になりたいなぁ。
じいちゃんありがとう
それでは