ショートストーリー 01_同罪
「よっ!久し振り!」
少し驚きながらも平静を装い、軽く叩かれた肩のほうにサッと振り向く。
「あ、どうも。ご無沙汰です。」
大学時代のサークルの先輩だ。私が1年のときに4年だった先輩。サークルの代表だった。何を思ったか当時1年だった自分をサークルの要職に就けた。学年も違うし付き合いも浅い。私の何を見て決めたのだろう。いまだによくわからない。
「お前知ってる?」
始まった。この人はいつもこうだ。自分の話したいことを自分のペースで話し出す。たいていはどうでもいい話し。しかも、ほとんどが三人称の話題。
今日もこうして久し振りに会った。どのくらいだろう。1年振りくらいだろうか。そして、会話しているのは先輩と私の二人だけ。なのにお互いの話題になることがほとんどない。
「最近どう?忙しい?」
確かにこの手の話しもどうでもいい。世間話とほぼ変わらない。しかし、久し振りに会って、相手の様子を伺おうとするのが自然なのではないだろうか。
「こないだ俺さぁ車で事故しちゃってさぁ。」
まぁこれでもいいだろう。久し振りに会った二人が最初にする会話としてはまあ悪くはない。辛うじて私から見れば二人称だ。しかし、そうなることはない。
「お前知ってる?あいつのとこ来月子どもが生まれるんだって。」
やはりだ。この人は何も変わってない。恐らく、コミュニケーションの取り方だけでなく、生き方のフレームワークそのものが長い間バージョンアップされていないままなのだろう。
「しかしすごいよな。今年生まれてさぁ、子どもが成人するときには60代だもんな。考えられないよ。な?」
その話しの主も同じサークルの先輩。私が1年のときに3年だった。実際のところ当時からほとんど付き合いがない。もちろん、今は全く交流がない。でも、数年前に結婚したことや最近になってようやく待望の子どもを授かったことは風の便りで知っていた。
いつもなら、私の高性能ノイズキャンセリング機能が先輩の音声をノイズと判断し耳に入ってくることはないが、機能の誤動作か、ノイズではないという判断かは定かではないが、今回ばかりははっきりと認識した。
いったい何がすごいというのだろうか。いったい何が考えられないというのだろうか。
公園で一緒に遊んでやれないかもしれないことを気にしているのか。授業参観に行っても「おじいちゃんが来たの?」と言われてしまうことを気にしているのか。運動会の保護者参加の競技でみっともない姿を見せてしまうことを気にしているのか。
それでも、私は「それ、どういうことですか?」とは絶対に尋ねない。尋ねる気も起こらない。尋ねたところで返答はどうせくだらないからだ。
なのになぜだろう。無性に腹が立つ。
そうですねと言ってやり過ごせばいいだけ。その理由なんてどうせくだらないのだから放っておけばいいだけ。なのに今回ばかりはなぜか気持ちがざわつく。
なかなか子宝に恵まれなかっただろう先輩の気持ちがあたかも自分の気持ちであるかのようにググッと私の中に入ってきたからか。それとも、私達夫婦も子どもを授からず、少し苦労した時期があったことを思い出し、知らず知らずのうちにあのときの悲しさや悔しさや切なさといった様々な感情が渦巻いて押し寄せたからか。自分でもよくわからない。でも、この、どうせ何も深くは考えてないであろう先輩の、デリカシーの欠片も感じられないお気楽が、私の心の中の繊細な部分を刺激してしまったのだろう。無性に腹が立ってしまった。
いくつで結婚しようと、結婚したいという気持ちに従ったまで。いくつで子どもを授かったとしても、子どもが欲しいという気持ちに従ったまで。たとえ困難があったとしても、よほど予測できないことでない限り、きっと頑張っていける。そう信じたからこその素敵な希望である。それにどんなケチをつけようというのか。どう考えて、どう迷って、そして決断したのか。そんなの個人の自由じゃないか。自分の感覚だけが普通とでも言いたいのか。ふざけやがって。
そう思ったとき、はっと我に返った。
「私も同じ。」
そう、私も同じなのである。
確かに、先輩は何の気なしに、心の赴くままに話しをしただけだったのかもしれない。いや、間違いなく何も考えていない。自分の発言が相手にどう受け止められるかなど気にもしていない。元来、何か事を起こす前に一度ブレーキを踏むようなタイプではない。だから、本人にとってみれば人生を左右するくらい重大なことを世間話と変わらない軽さで話していることに気づいていない。しかし、そんな人でも、思ったことを思ったように話すことは個人の自由なのである。
先輩の発言は許されないけれど、私がこの先輩に抱いた感情は許される。先輩の自由は許されないけれど、私の自由は許される。そんなことはない。やはり、そんなことはないのである。
そんな想いが頭の中でグルグルと回り、その回転が速くなる。次第に気分が悪くなる。
他人の気持ちに寄り添うことも知らないのかよ、という腹立たしさに、そんな人と同じなのかよ、という虚しさが加わって気分の悪さが増幅する。
そんなやり場のない気持ちを抱えながら、再びノイズキャンセリングが機能しはじめたことに気づいていた。
※このショートストーリーはフィクションです。