代々木決戦感想レポート
筆者 焼鳥
※これは「好き」を捻じ曲がりすぎた一ファンのレポートである。
それでもなら読め
始発であり、真の意味でピリオドを見せられたライブ
怪歌はそもそも『不可解』シリーズの次に位置する、アニメの二期みたいなものである。(八割方違うことは百も承知である)
つまり第一話、前回の終わりを含めての始まりだ。まぁそんなライブなら何も起きない筈もなく。
皆大好き専用歌唱形態
ライブではお馴染みの特殊歌唱用形態。
今回は今までとはベクトルが異なり、見るものを魅了する、怪歌に相応しいどこか妖しい服装だ。
しかし花譜が着るとライブでの身振り手振り、服の印象語ろうコーナーも含めて、ただただ可愛い衣装なるのは不思議だ。まぁ花譜だしね、そういうものなのだろう。(他の魔女に着せようとすると多分怒る人いるよな)
前回に続く熱渦巻く歌の世界
前回の不可解狂ではペンライトを解禁、今回の怪歌でも続くようにペンライトが解禁されている。(味を占めたのか、いいぞもっとやれ)
花譜の歌と演奏、瞬く間に変わる世界をさらに色を付けるペンライト。
遠隔で観測者全員のペンライトの色を変える技術だからこそ出来る技であり、元々色の変更が苦手な筆者もこれなら安心して振れるというもの。
しかも花譜の存在感に負けない背景映像やリリックモーションといった物がライブ終了まで映し出されるのだから、疲れてる暇など無いのも辛い話だ。
他にも前回大人気であったDJタイムが今回もあったりと、不可解狂で好評だったものを余す事無く取り込んでいるのも今回のライブの魅力だろう。
舞台で舞うダンサー達と、目に入れると痛いはずなのに見入ってしまう背景映像。選曲はどれも盛り上がるものばかりであり、選んだ人は酒空けて優勝してほしいほどだ
またライブの最中に組曲の続曲である「組曲2」の曲もお披露目になり、花譜自身のリリックによるラップも初お披露目となった。(どんな曲も歌えるの本当に人なのか彼女は)筆者は存じあげない方で申し訳ないと思えるほどの会場の盛り上げ方が凄く、見入るラップとそれをより形作る体の動かし方、これが本場というものなのだろう。
ゲスト組も凄い事になっている。全員紹介したいが、後述する物でそれどころではなくなった。
ゲスト公開で話題にもなった佐倉綾音さんとの生歌の破壊力も凄まじい物があり、「聴けて満足/死ぬのか俺?」となるほどだ。佐倉綾音さんの力強く、けど全て聴きとれる歌声には、花譜は知らないが、佐倉綾音さんは好きという人も聴く価値があると断言出来る。
(あと口には出さなかったが、「本物だ…」と思ってました。)
続いては絶対的な歌唱力を持ち、圧倒的知名度を誇る森カリオペさんだ。
海外から参戦ということもあり、一体どういう人脈なのだろうか…星町すいせいさんあたりなのだろうか。審議は定かではないが、それは本題では無い。最強の歌唱力と最強の歌唱力が合体すれば、生まれるのは必然である。
それは最強だ。登場した時はどこかほんわか雰囲気であった、しかしそれは平常時の話、歌は別だ。本場の英語となめらかな日本語、「高いが低い・重く圧し掛かるがまるで刃物が如く耳に入る歌声」、なんだただの神か。
(無知の私でも知ってる曲を置いときます)
新曲の大盤振る舞い
またやったよあいつらと毎回言ってるような気もするが、平常運転だからもう諦めよう。でも今回の新曲たちは比較的乗りやすい曲だったから良しとしよう。(最初期不可解の話は止そう。あれは例外だ)
カンザキイオリさん脱退もあり、様々な人が花譜さんの曲を手掛けている。
それでも花譜は色褪せず、むしろより色味が増すのだから恐れ入った。
(シンガーソングライターの一面がそれを強くしているのかもしれない)
でも言いたい!水飲みはくれ!!!
いつか来ると分かっていた
ここからが本題であり、筆者の汚点である。
まずバーチャル自体は何十年と続くものではない。人の手が入らなければ見た目は変わらず時間は止まり続ける、ましては人間という生き物は変わる生き物だ。(停滞はいずれ衰退を起こすし、何かを少しずつ変えなければ迎えるのは虚無か、バーチャルならば卒業・引退に当たるだろう)
私が見ているバーチャルの配信者は「数年から十年ほどの間に、人生を生きていけるお金を稼ぐ必要ある」と言っていたほどだ。
(指しているのはFPS系の大御所の方です)
人は変わる、そしてそれは花譜にも例外ではない。
五年は長い時間だ。少なくとも人生の転換期は一つ二つ超えていても不思議じゃない。花譜の活動自体が彼女の両親を「バーチャルの匿名性」を用いての説得から始まったものだ。そこから五年だ。
花譜はもう大学生であり、成人を迎えている。活動初期とは環境も状況も違う。
そして違うのは花譜も同じであろう。
彼女はもう大人であり、観測者である私達と同じ『人間』だ。
悩みもあるし、言い出せない事もある。ごく普通の『人間』なのだ。
そしてその自分は『花譜』ではない自分であり、『花譜』もまた自分だ。
その二つで彼女が成り立つのであれば、当然その時が来るのだ。
私は『廻花』の門出は祝うべきだし、それは祝福されるものだと考えている。しかし、それとは別に嚙み潰すにあまりにも苦い感情もあるのも事実だ。
私は『花譜』に惚れ、ずっと追っていた者だ。もうそれは消え失せ、二度と目にするものではない事を書いておく。(不可解狂の「My dear」によって求めていた『花譜』の幻想は壊れている。)それでも花譜が好きだ。それは変わらない。じゃあ花譜として舞台に立っていた彼女が好きかどうかと問われれば、そうではなかったみたいだ。
声も、身振り手振りも、話し方も、その存在も確かに「花譜」だ。
でも違うのだ、彼女は違うのだ。廻花はそういう存在では無いのだ。
彼女は「花譜」のように「貰えたものを教授出来る人」ではない。
それを貰って本当にいいのかと考える『ごく普通の女性』だ。
苦しみから曲を生み出していたカンザキイオリと彼女との相性が良かったのも頷ける。カンザキイオリさんのツイートから察するに、恐らく彼女もそちら側なのだろう。
仕事、営業面で見れば「廻花」の存在はとても大きい。バーチャルだけでは出来ない事が出来るようになる。それは計り知れないほど出来るようになる。バーチャルの花譜とのズレが本人も許容出来ないものになったとしても「廻花」として活動を続けられる。(言いたくはないが十分起こりえる話だろう。)
なにより廻花であれば本人の成長と共に成長する。そこはバーチャルとの違いだ。そして本人が語った「どちらも自分」という言葉。その言葉を口に出せるようになるまでどれほどの苦痛があったのかなど、想像する方が無理な話である。
だがそれはそれであり、感情は別の話だ。
私はあのライブ会場で彼女を目にした時、「いつか来ると分かっていた上で、私はこの光景を目にしたくなかった」と思った。「見たくなかった」では無い、「目にしたくなかった」である。つまり起こって欲しくなかったのだ。我ながらゴミ未満の感情である。でもそれが本当の気持ちだ。
「廻花」が選び、進んだ『勇気の一歩』は称賛されるものであり、それはライブ会場の喚起が答えなのであろう。
けれど、そこだけは変わって欲しくなかったと思う醜い人間が私であり、あの空間において0に等しい異常者であろう。
私が求めたのは元より偶像の「花譜」からの変わらない停滞であり、本来淘汰される側の感情意見である事は間違いない。あの頃の花譜を求めているのは否定しないし、肯定しかしないだろう。だが花譜は不可解狂で、もうその答えを出している。
またそれとは別に廻花としてのアンサーは「裏表ガール」を聴けば分かる事だ。
彼女は歌うし、きっと自分はそれを追うのだろう。
そしてその度に勝手に絶望し、その度にまた花譜を求めるのだろう。
でもその上で彼女にも変わらないものはある。
昔花譜が一番好きなオリジナル曲は「心臓と絡繰」と話していた。
(この話は確かfanbox時代の物なので、恐らくyoutubeのメン限に移植されていると思う。)
そして今回のライブのエンディングを占めたのは
心臓と絡繰だった
そんなしょうもない理由でまた彼女を追いたいと思ってしまうのだから、さっさとこんな一ファンは消えた方が良い。
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