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【随筆】夏の思い出

 夢を見ている。所謂、明晰夢というものである。
 俯瞰ではなく主観視点である為に状況の全て(主に自身の背格好や顔貌)は把握出来ないが、恐らく小学校中学年から高学年に掛けての年代であろう。その時期に所持していた自転車に見覚えがある。

 僕は今、自転車を漕いでいる。前を走る、今よりも少し大きい父親の背中を追いかけて自転車を必死に漕いでいる。ギアを上げ、サドルから腰を浮かし、湧き上がる高揚感を原動力に汗を滲ませながら。
 季節は8月か。太陽の大きさと蝉の声が夏の最も盛んな時期である事を如実に伝えている。何処に向かっているのか。確証はないが、見当は付いている。
 夢の、あの独特な白んだ視界、と言うのか。普段より広い視野、そして緩く流れている様に感じる時間感覚。その陶酔感を堪能していたら、いつの間にか目的地に到着していた。疲労か興奮か、息が上がる。予想通り、当時夏場によく利用していた市営の遊泳用プールである。

 まず、その規模の広大さに驚く。視点の違いで受ける印象が斯くも異なるのか。そして非現実感、特別感、郷愁感、その全てを内包した空間は、まるで世界の全てがこの場所に凝縮されている様である。
 ひとしきり遊び、水を出た。満足感に満ち満ちている。しかし、充足感と言うには何かが不足している。何であろう。いや、分かっている。道中からずっと頭の片隅を離れてくれなかったものを、僕は確かに自覚している筈なのだ。

 父親に手を曳かれ、プールサイドの売店に向かう。「何が良い。」父親も分かっていて毎度尋ねてくる。僕がこの場所で選ぶものは決まっている。迷いなく手が伸びる。まるで、その売店にはその商品しか置いていないかの様に。

 パラソルの下、広げたレジャーシートに腰を下ろし、大きな音を立てて開封されたペットボトルは1本の三ツ矢サイダー。何ら珍しくない、季節も場所も問わず手に入るありふれた飲み物。しかし、僕にとっての夏は間違いなくその中に存在しているのである。
 急かされる様に口に運び、独特な香りが鼻を抜ける。強めの甘みと若干の酸味は、正に涼しさを感じさせる味だ。強めの炭酸に圧倒されながらもボトルを持つ手が下ろせない。結局毎回、ペットボトルは一瞬で半分ほどの重さになってしまう。
 横にいる父親はビールを片手に寛いでいる。大人の余暇を理解したつもりになり満足げな小学生の姿が、片手に持った三ツ矢サイダーの最後の一滴に煌めいた。

 目が覚めた。雀が鳴いている。空の青さがカーテンの隙間から覗いているが、起きるにはまだ早い。
 就寝前に掛けた薄い毛布は床に倒れて寝息を立てている。気が付けば、身体は少し汗ばんでいた。夏の暑さに依るものなのか、壮大な時間旅行の疲労に依るものなのか。それとも大の夏嫌いを自覚している僕が、確かに夏を楽しんでいた記憶を喚起され、成長に依る記憶の忘却と、決して当時に戻ることの出来ない悲哀に焦りを感じている為か。

 随分と長い間、夏を楽しめていなかったと思う。夏嫌いは到底直りそうにないが、新しい冒険には出られる気がする。まだ8月は終わっていない。過去を取り返すのではない。今の僕が今の夏を楽しむのだ。未来の僕が、今日の僕と同じ様に気持ち良く旧懐の情に浸ることが出来る様に。
 部屋着のまま無造作に100円玉を2枚だけ財布から取り出し、久しく口にしていない「いつもの」を求めて、僕は家を飛び出した。



ロン毛

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