【妊娠7週 稽留流産】子供がそこまで欲しくなかった私の、妊娠~流産まで。①
※2021.4.24 追記
この記事は、私が個人的に体験した稽留流産 子宮内容除去術の備忘録となっております。できるだけ体験した事実に基づき正確に書いているつもりですが、記憶違い等あるかと思います。また、当方ガサツなので、普通の感覚の方から見たらそりゃないぜという内容・言葉遣いになっている可能性もあります。加えて、人によってはお辛いことを思い出してしまったり、不安を煽ってしまうこともあるかもしれません。あくまで個人的な体験に基づいていますので、お読みいただく前にそのことをご留意くだされば幸甚に存じます。
稽留流産発覚まで
私、34歳。夫、33歳。どこにでもいる子なし夫婦。
子供は? いてもいなくても。でも、お金も時間もある程度好きに使える今の生活が心地よいかな。ま、普通に過ごして、自然に授かれたたらいいよね。2人の子供がどんな子になるか、会ってみたい気もするし。
私はとある公共施設の現場管理をしている。(まどろっこしい書き方だがこう書くしか出来ない。因みに公務員ではない、受託会社の社員)小さな現場だが、責任者として現場を束ねる立場。たくさんの仲間に囲まれて、色んな悩みもあるが幸せな職場。
そんな私が妊娠発覚したのは2021年の3月のこと。
はじめは生理がなかなか来ないな、もしや? 検査薬。どうせ、出来てるわけない。え? 陽性?? まさか・・・!
喜びというより、戸惑った。まず、仕事どうするの。後任は・・・? お金は・・・? 生むのはまだしも、教育費とかうち払えるの?
夫は割と無邪気に喜んでいた。呑気でいいぜと思う一方、私以上に喜んでくれる姿に安堵もした。
そして始まる悪阻。今思えば、そんなに重いほうではなかった。でも時折襲ってくる胸のむかつき、吐き気。そして食べ悪阻だったのか、みるみる増える体重。どんどんでかくなる太ももや尻に、私これからどれだけ巨大化するん、これから70キロ、80キロと際限なく太ったらどうしよう、と本気で悲しくなってわんわん泣いた日もあった。
今思うとアホらしいが・・・。それが全て幸せなことだったと気付いたのは、陽性判定から3回目の受診の日だった。
それまで、1回目の受診は、検査薬で陽性が出た翌日。そこでは胎嚢が確認できず、また翌週来てねと言われる。
2回目は、胎嚢は確認できたが、心拍はまだ。次は翌々週にね、と言われる。
そして約2週間後。3回目の受診。
期待は実はあまりしていなかった。まず、周囲に初期流産を経験した人が多く、心拍確認までは油断できないと思っていた。また、34歳という、微妙な年齢。もちろん、この年齢を大きく超えて無事出産している人は大勢いるが、でも、決して若者と同じ、とは言えないだろう。
エコーの機械が入った。やや長めの沈黙。
「心音が、確認できないですね。成長が止まっているようです」
「ああ、、そうですか」
努めて平静に。覚悟していたではないか。別にもともとめっちゃ子供欲しかったわけじゃないじゃん。あーでも、悲しいな。でも、泣いたりはしないでおこう、先生困るだろうから。なんてことを考えてた。自分でもなぜここでかっこつけようとしたか分からない・・・。
内診台を降りて診察室へ。また数日後再度確認するが、ほぼ稽留流産で確定するだろうということ。自然排出を待つか手術で出すかを選ぶが、自然排出を待つなら、夜間や土日はこのクリニックでは対応できないから大きな病院で診てもらうことになるということ。手術なら予約してこのクリニックで出来るし、いつになるか分からない排出を待つより手術を勧めるということ・・・。混乱する頭でやっとこさ聞いた。
その夜、夫に告げる。「子供、だめだった。心音確認できないって。亡くなっているって」夫は固まっていた。「そっか・・・。」絞り出すような声で言った。ああ、楽しみにしてたんだね、ごめん。私、こともなげに言っちゃった。心配させたくなくて。
でも、子供を失ったことは、夫もいっしょだ。私はこのとき、このことを絶対に忘れないでおこうと思った。