記録することの大切さ
また久しぶりにnoteを訪問している。インスタで自語りしているから、こなくなってしまう。どこでも落書きをする幼い頃の私は、成長してもなお、インターネットの壁に落書きを残し続けている。
今日は最近の気付きを記していきたい。
まず初めの気付きは、タイトルにもある通り、記録することは大切ということだ。これは自身でもうっすら思っていたが、配信で見た舞台の登場人物が「忘れてしまわないうちに文章に書いておくんだよ、そうすることで過去の自分と向き合うことができる、あの時の自分の選択は正しかったのか、あれしか方法はなかったのか、全て思い出して、それから未来の自分を思い描くんだよ。変わりゆくこの時代でどんな自分になっていきたいのか、どんな世界を望むのか。」って話していて。
私もここまで大義ではないけれども、記録をすることで未来の私が道に迷っても、過去の私が答えを出してたり。未来の自分が過去の自分のおかげでどうにか成長できたりしているな、と思ったから改めて記録していきたいと思ったよ。
人は毎日絶え間なく考え続けている。インターネットやモバイルフォンが普及し、いつでもどこでも大量の情報を閲覧する我々は脳がオーバーヒートするぐらい日々情報を処理している。だから、昔と比較して物覚えが悪くなったり、記憶力が落ちている。 といった話を各所で聞く。
高校生の頃はそんなこと思わなかったけど、振り返ってみれば、毎日膨大な情報に触れるせいで1つの情報に対してかけるコストが減り、しっかりと記憶しないし、思考もしなくなった。つまり手を動かさなくなるのだ。
大好きなバンドマンがDJをしていたラジオを、毎週リアルタイムで聴き、聴きながら話している内容をA4の紙に書き出して、絵を付け足していた私は、タイムフリーや議事録に頼り、SNSを観ながら片手間にラジオを聴いて何も記憶してない人になっていた。
記録をしないことは記憶をしないことなのか?
それはじわじわと各所で進行していき、ガッツリ働くことをしなくなった脳みそは、自覚できる程度に記憶力が落ちてしまっていた。
昔の私はライブ1本いくだけでも必死で、年2回会えたらいい学生だった。だから1本1本のライブが人生のライフイベントぐらい大事だった。セットリストは頭から全部記憶して、どの曲のどこで誰が何をしたか。どう思ったか。何が起こったのか。事細かに記憶していて、ライブ終わったその日、深夜1時までずっとガリガリ記していた。私が衝撃を受けた舞台はもう劇場を出た直後にガンガンメモに記した。
何本も行けるようになった今の私は、観劇前後に予定をいれたり仕事を持っていくことが多いのもあり、直後の記録をしなくなった。そしてコロナ禍を経て多くのイベントが配信をするようになった。「後で見ればいいや」「次見ればいいや」という気持ちが生まれ、1本1本に対する思いや熱量が薄くなってしまった。大好きな気持ちは変わらないのに。昔は1本1本大事にしない演者にキレてたし、日によって機嫌が変わる演者が嫌だった。でも今はどうだ。1本1本大事にしないのは私の方だよね。逆に演者はコロナを通じて1本1本を大事にするようになったよね。 愚か。
一応記録することは続けてはいるものの、インスタント麺のような記録。感情の記録が8割。記録しないよりはマシだと思うが、久々に見返すと薄っぺらいなにか風味のグミを噛んでいる感じしかしない。絶望だ。
気付けば創作するためのネタをメモする気力も落ちてしまって、同じ構想を延々として、つまらなくなって、公式や他の人からの産物を消費するだけの人になっていた。
非常によろしくない。昔から落書きしまくり、絵描きまくり、鼻歌歌いまくりの私から創作性を取ったら何も残らないので、なんでもいいから生み出し続けなければいけない。例えいいねがつかなくても、私が私であるためにね。
記憶して、次に繋げる。その手段としての記録をしていきたいと思った。
このnoteを書いている間にも、記録するために文を出力することにも意味があるんだと痛感している。私は紙とペン、本、ガラケーも、PC、タブレット、スマホもしっかり使って生きてきた。PCをちゃんと使ったのも、家にWi-Fiを通してYouTubeを延々に見るようになったのもここ5~6年のことだ。でも1カ月3GBで生きてこれた私はもうどこにもいない。電子の手軽さと手間の無さに負けてしまった。
6年前の私は紙にガリガリ記録していたし、大学時代も社会人になっても結局メモをガリガリしているが、PCのタイピングもスマホのフリックもそれなりに早い。だから楽なこっちでまとまりのない冗長な文章を書き連ねている。
ガリガリ書くことは腕の筋肉を酷使するが、タイピングなんて一定量こなせば無限に打つことが出来る。だから短く簡潔にわかりやすい文を書く努力もしなくなり、この有様だ。
先日、好きな俳優が出ていた舞台を観劇した。お手紙を渡すことができたため、久方ぶりに認めてお渡しした。しかし、執筆する文をメモに打ち込んでいるとき気付いたのだ。全体的にまとまりがなく、話が気持ちわるい終わり方をしていたり、うまく言語化できず「すごかった」「カッコよかった」とかいう抽象的なワードを使ってしまっていることに。時間もなく、考える脳みそもなかったため、何とか読める形にした後に提出したのだが、絶望した。自分の作文能力の無さに。
就活のESや卒論は起承転結!PREP!を意識して説得力のある文を書けばいいため。ネタさえ決まれば後は話を繋げるだけでよい。しかし手紙、ブログでそれをそのまま出力すると何も面白くない。だからどうにか血の通った文を届けるためにラジオを意識してみるのだが、構成力もなくなった私が出力したものは、味気のない、記憶に残らない、出がらしだった。
文から熱量が伝わってくる!という言葉をよく貰ったり、懸賞を当てるために感想を必死に書いて無事当てた私はもうどこにもいなかった。
この文を打っている最中も脳みそに出てきたものを何も通さずに出力しているので、さっき打った文を忘れているし、接続詞がオカシイ。もうダメなのかもしれない。
でもここで気付けたことはいいことだと前向きにとらえて、noteでもインスタでもTwitter(:X)でも取り合えず、思ったこと、考えたことを綴っていきたい。し、しっかり人にみせてもおかしくない文章をつくっていきたい。
今応援してるコンテンツの夢小説ガンガン書いて、自分の文章力上げがてら、界隈を盛り上げるかー。
その前にnoteでしっかりとした文を綴ろうね。