物書庵初心週記帖(49号)「贅沢はお金の使い方ではなく、時間の使い方」
二十四節期の立夏を過ぎて、暦の上では夏。暦に合わせるかのように5月に入り最高気温もグングンと上がっている。先週末、ほど近い小貝川沿いのバーベキュー場へ赴き、新調したテントとタープの試し張りに行ったが、最高気温は29度と一昔前の夏を彷彿とさせる勢いで日差しが照り付け、クッキリと日焼け跡が残った。肝心の試し張りはというと…30年ぶりのヘキサタープに強風のコンディションが重なり、まるでキャンプブームに乗っかっているにわかキャンパーのごとく右往左往しながら時間は過ぎていき、見事に失敗。まぁ、試し張りだし失敗しに来てるんだからいいさ、という事で次の週末に早速リベンジしようと息を巻いている。
2年連続で自粛ムードのGWのプチ贅沢として「高級ホテルのスイーツお取り寄せ」「高級焼肉店の弁当」「1泊2万円以上のグランピング(今のご時世、飲酒は禁止…楽しさ半減ではないかと思ってしまう)」が人気を集めていたと聞く。コロナ禍に負けない消費意欲自体は大歓迎だ。が、贅沢=お金を使う事、だと刷り込まれている人が多いのでは、と思わず危惧してしまった。
贅沢というのは時間に対する表現だと思っている。価値観の違い、と言えばそれまでだが、お金をいくら使ったかではなく、その時その場所でしか過ごせない時間に巡り会えているか、ではないだろうか。
広大な自然の中で、気の合う仲間と、焚き火を囲い、酒を酌み交わしながらたわいもない事を語らう。これが究極の贅沢だと思っている。
連休の1日、雨引観音から雨引山、御嶽山とささやかな縦走登山を楽しんできたが、道中で食べたコンビニおにぎりは格別の味わいで、これぞ贅沢の極みではないだろうか!こんな小さな楽しみを糧にしながらこのご時世を乗り切っていくしかないのかとヒシヒシと感じながら連休明けの日常に戻っていった。