物書庵初心週記帖(11号)「東日本大震災から9年」

2011年3月11日に発生した東日本大震災から9年が経過した。

愚庵はあの瞬間を定禅寺通りの一角にあるオフィスビルで迎える事となった。2010年の4月より転勤で仙台に住むことになったが、転勤前に連れ合いとアパートを探しに行ったのが仙台初上陸であった。そんな縁もゆかりもない仙台であの瞬間を迎えた事は、自分の人生にとって何かしらの意味があるのだろうと思っている。

これまでは拙文ながらも愚庵なりに推敲を重ねていたが、本号は思う事感じる事を取り止めもなく、まとめることもなく書いている。大きな被害に遭われた方が大勢いる中、早い段階で日常生活を取り戻す事が叶った者が震災について語る事に意味があるのかとも思う。それでも、今この時に感じる事にも何かしら意味があるだろうと考え、思いのまままに書き残そうと思う。

2011年3月11日(金)の14:46は勤務先のオフィス内で迎える事となった。9割以上が女性スタッフの職場は大きな揺れと共にパニックとなった。そんな中、妙に落ち着いていて、避難経路を確保するため扉を開け放したりしていたが、天井が外れたのを見て身の危険を感じて机の下に潜り、ただただ揺れが収まるのを待つ事しか出来なかった。揺れが収まり、最も気になるのは家族の安否。徒歩5分圏内で仕事をしていた連れ合いと連絡を取ろうとするも電話もSMSも不通。LINEも無い時代、Twitterで待合せ場所の連絡を取り合い、早々にお互いの無事を確認する事が出来たのは何よりも幸運であった。

職場内には命の危険に及ぶ損壊は起きていない事が確認出来たのも束の間、3月にも関わらずけっこうな勢いで雪が降り出した。今は懐かしいガラケーのワンセグでテレビを見た時に飛び込んできたのは駅前で火災、沿岸では津波が発生しているニュース。所詮、自然には勝てないのかと痛感した。

夜になり、電気は消え、割れた窓ガラスが飛び散っている道を連れ合いと歩いて帰宅する道中、公衆電話からお互いの実家へと電話をかけてみんなの無事を確認しホッと胸を撫で下ろした。

当時住んでいたマンションや部屋の中はどうなっているのか不安であったが、揺れの方向と家具の向きが偶然噛み合った様で、家具の倒壊もなく、フライパンから前日揚げ物をした油がこぼれる程度で済んだ。

住んでいた地域は仙台市内であったので、大きな被害に見舞われる地域では無かったが、それでも日常の風景は一変した。翌朝ベランダからいつもの景色を眺めると、遠方に見えるキノコ雲のような黒煙。自衛隊や報道のヘリコプターがプロペラ音を鳴らして空を飛び交う。着かなくなった信号を頼る事なく譲り合いながら交差点を通過するドライバー。

震災当日は電気、ガス、水道全て停まっていたものの、貯水場が高台にあった影響か水道は早々に使える様になり、電気も数日で復旧。真っ暗な景色の中、徐々に徐々に灯りが付いていく光景は今も目に焼き付いている。電気が使える事になった喜びと同時にテレビから飛び込んできたのは痛ましいという言葉ではとても言い表す事が出来ない津波被害の映像。濁流に飲み込まれていく家、ヒト、生活、宝物。震災前の予定では、翌日の3.12に東京スイーツフェアなるイベントが開かれる予定だった沿岸地域に遊びに行く予定だった。普段都内の人気店、有名店に興味を持つ事がほとんどない二人だが、仙台の生活も1年を迎える中「なんだか懐かしくて楽しそうだね」と意見が合い、楽しみにしていた。後日確認したところ、津波で一階は水没していた。たまたま1日ずれていて、もし、あの時あの場所にいたとしたら、地震イコール津波を避けるため海から離れるという判断は出来ていただろうか。未だに答えは出ない。人間は生かされているという事を実感した。

ガスの復旧には1ヶ月ほどかかっただろうか。3月でもまだまだ仙台は寒く、電気ポットで沸かしたお湯を使って体を拭き頭を洗って凌いだ。ガスが復旧し、蛇口をひねるとお湯が出る生活がどれだけ贅沢なのかを思い知った。

会社の入っていたビルは安全確保のために入室禁止となり、朝日と共に起きて、生きる為の食材を調達し、情報を確認する生活が開始した。連れ合いとは以前からよくキャンプに行っており、現代では不便と思われる生活に慣れているのが功を奏したのであろう。震災の数日後に迎えた初めての結婚記念日はガスコンロで作った即席ラーメンでお祝いしたが、お互い無事に食事が出来ている事だけでも十分であり、とても美味しいディナーとなった。

そんな不便な生活にも少し慣れつつあった中、南吉成のスーパーで開かれていた青空市場で買い物をしていた時「福島で原発が爆発した!もうすぐ放射能が飛んできてとんでもない事になるから閉店します!皆さんも早く屋内に退避して下さい!」パニックに近い店員さんからの声がけから間もなく、青空市場は閉店。「未知なるモノ」に近かった原発、放射能に対してなす術もなく自宅に帰りテレビをつける事しかできなかった。

日々鮮明になっていく津波被害と拡大していく原発事故。繰り返す余震に嫌でも体が反応する日々が続いた。一方で、仙台市内は少しずつ復旧工事が進み会社も再開された。自宅が全て流された人、ご両親が未だに行方不明の人、親戚がすでにご遺体として発見されている人。日常が失われた人がテレビの向こうではなく、目の前にいる。海沿いの被害が大きいエリアでは、店舗での盗難や被災宅での窃盗など、テレビでは報じられていない事が起きていると聞いた。ご両親を亡くした同僚の葬儀に出席した際に降り立った石巻駅前は、なんと表現したら良いかわからない臭いと無数のハエが飛び交っており、ここは日本なのか?と感じるほど変わり果ててしまっていた。

よく立ち寄っていた古着屋さんが震災から数日でお店を開けていて「こんな時だから、お店を開けてお客さんに服を選ぶ楽しみを感じてもらうのも必要だと思うんです」と語っていたのは印象に残っている。災害発生時は自粛ムードが広がり、エンタメ系から活動自粛が始まっていく。ただ、被災という日常に対して勇気や元気というモノを与える事が出来る力を持つのはエンタメである事は実感した。日々の支えになるのは家族や身近な仲間、背中を押したり明るくしてくれるのはエンタメだと思う。東北楽天ゴールデンイーグルス嶋選手のスピーチ、キングカズのチャリティーマッチでのゴール、力強く甲子園を行進し全力で戦った球児達。愚庵はやはりスポーツを通じて力を貰う事が多く、今見ても色あせる事ないシーンだと思っているが、人それぞれ勇気を貰った人がいるであろう。逆にこういう時に人前に出てパフォーマンスが出来ないという事は真の実力がない、プロフェッショナルとはとても呼べない人なんだろうと思う。

水道・電気・ガスが復旧し、仕事が始まり、食材も大きな不便なく買えるようになってくると、心にはなんとなく日常が戻ってきた様に感じられる様になってきたが、それも生活インフラのダメージは最小限、家族も全員無事であったという何よりも幸運だったからであろう。

震災から1年が経過した2012年の3月末をもって転勤生活は終わり、関東での生活に戻る事になったが、その後も年に1回以上は仙台、東北の地を訪れるようにしている。

被害のレベルは様々であるが、その人にとっての日常をいかに震災前に近づけられるかが復興なのではないかと思っている。

支援をしたいと思っている方は、現地を訪れてお金を落とす、現地に行けずとも東北産のお酒や食材を楽しむ、正しい団体に募金をする等、何かしらの行動をすれば、それは立派な支援だと思う。

ここまで取り止めもなく書き連ねてきたが、最後にこの震災から学ばせてもらった事を書き連ねて、本号の締めくくりとさせていただこうと思う。

・人生の優先順位を明確にして、普段からその優先順位(価値観)に従って行動を積み重ねる事は大切。自分、家族、仲間、仕事…。他者と優先順位がかみ合わない時に自分の価値観をしっかりと持てていれば迷わずに行動が出来る。愚庵にとっては家族>仕事。家族を犠牲にして成り立つ仕事はない。

・人を楽しませる、笑わせる、喜ばせる、驚かせる、感動させる、そんな力は強い。そして、真に力を持っているかは有事にこそ試され、発揮される。

・誰にも正しい判断がわからない状況でこそ、人や組織の価値観がよくわかる。日頃、崇高な理想を掲げていようとも、有事に実態が伴わないのであれば結局は建前でしかないという事。

繰り返しになるが、あの日、あの時間に仙台の地にいたという事は、自分の人生にとって何かしらの意味があるのだと思い、これからも自分に出来る事を続けていこうと思う。

東日本大震災で被災され、大事な家族、仲間、仕事、家、居場所を失われた方に真の復興が1日も早く訪れる事、そして、亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り致します。

いいなと思ったら応援しよう!