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禅の公案の答え(19)
法話会
さて、テキストデータを通じて仏教の教えを皆さんに伝えているわけですが、私の言っているようなことは誰かの本、どこかのお経にも必ず載っているものです。しかもそちらの方が正確。ではなぜ自分は書くのだろうか、とふと考えることがあります。やはりこういう文章はお経と同じでどこそこの寺でやっているからいい、というものではないのでしょう。きっと。
寺町で坐禅を組んでいると、朝の読経があちこちのお寺から聞こえます。聞きなれたお経ですから、私なんかはもう十分だな、と思うのですが、初めて聞く、という人も中にはいるんですよね。その初めての人になるべく届くように、お経を覚えたなら自分も毎日称えるべきだな、と最近思うようになってきています。
Facebookでいつも読んでいるよ、という有難いメッセージを何人かの方からいただいていて、それも励みになっているのですが、どこそこで教えているから教えなくていい、じゃなくて、どこそこで自分が習ったから私も自分の居場所から届く範囲でお経(=法話)を称えるべきなのだな、と思うようになりました。
一作務、二坐禅、三看経
禅宗では一作務、二坐禅、三看経と言われます。
まず大事なのは作務、これは仕事だったり家事であります。次に坐禅、三つ目が看経だというのです。
私の執筆活動はどれに当たるかと言えば三の看経ですね。元を辿ればお経に書いてあることをわかりやすくときほぐして投稿しているに過ぎないからです。
門前の小僧習わぬ経を読む、というように10年も20年も仏教に親しんでいると、頭で何も考えていなくても自然と言葉が湧いてきます。これが10年続けば本物でしょう。坐禅というのは時間の単位が10年とか20年とか、気が長いのです。
さて、一番大切な一作務ですが、これは動く禅、動中工夫などと呼ばれ、臨済宗中興の大和尚白隠をして「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」と言わしめています。禅の集中状態、「今」に集中したまま動きのある日常をさばいていく、これがなかなか難しい行なのです。
そしてどこの寺へ行っても必ず言われることが「自分のことは自分でやる」ということです。これが一日さっぱりと出来れば、家にいつつ坐禅道場へ居るようなものです。私なんかは家族と同居しているのでなかなかここまでが自分の家事、ここからは家族の家事、と分けられるものではありませんが、自分が自分の分だと確信してやった部分に関してはやはりすがすがしさを感じますね。