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自未得度先度他

 自未得度先度他(じみとくどせんどた)という言葉が仏教にはある。
 これは、自分が未だ悟らずとも先に衆生を悟らせたいと願う気持ちである。
 この願いは初発心時便成正覚(しょほっしんじべんじょうしょうがく)という言葉とともに使われる。
 悟りを開くというと、自分だけが楽をするように感じられるが、それは小乗仏教の話であって、大乗仏教の悟りとは、生きとし生けるものを全て幸福にすることである。
 初発心時便成正覚とはその発心、初めて発心をした時に、衆生を幸福にするという願いは完成するので、悟りも完成するということである。志が固まれば、後は仏教書を読み、お寺に通い、自分もまた他人の役に立つ人間となるように努力する。そうして人のため人のためと思ううちに、知らず知らず自分も悟ってしまうのが理想と言えるだろう。
 しかし私自身は修行中、自分が悟らなくて他人だけ悟ればいいという意見には反対だった。やはり自分も救われてこその仏教であると思っていた。
 そしてこれも極端なお恥ずかしい話だが、私は自未得度先度他などとは、修行中一度も考えたことがなかった。ただ自分が苦しくて、苦しくて、このままでは自殺しか道がないというほどの状態まで七年間もの間追い込まれていた。私は坐禅のやり方を間違えていたのだと、今にして思う。
 結局悟りは開けたわけだが「悟りとは悟らぬ前の迷なり 悟りて見れば悟る物なし」というように、特別の心境になったのは半年くらいで、あとは死にたい、苦しい、というのがなくなったことくらいが、悟りらしきものの現れである。
 このお話を聞いている皆さんは是非利他行に生きて欲しい。その利他行にやる気を与えるものが、念仏であり、坐禅であり、題目であり真言なのである。

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