【対談】SHOGEN/アフリカで見つけた、人間の本当の役割
この記事では、月刊『ザ・フナイ』vol.204(2024年10月号)に掲載されている、SHOGEN氏と舩井勝仁氏による巻頭対談の一部を抜粋して公開いたします。
▼
▼
▼
アフリカで見つけた、
人間の本当の役割
舩井 今回はひすいこたろうさんとの共著『今日、誰のために生きる?』(廣済堂出版)がベストセラーになり、全国各地へ講演などでひっぱりだこのSHOGENさんにお話をうかがいます。SHOGENさんは「ティンガティンガ」の技法で描かれた絵に惹かれ、単身アフリカのタンザニアにあるティンガティンガ村へ渡りました。
そこでカンビリさんという方に「受講料の高い観光地ではなく自分の住んでいる村で生活しながら絵を学んだらどうか」と声をかけられ訪れたブンジュ村で絵を学びながらそこの村長さんや村人たちから学んだことを日本で伝えながらペンキ画のアーティストとして活躍されています。ブンジュ村へ最初に行かれたときすでに、SHOGEN さんがブンジュ村に来られることも予言されていたそうですね。
SHOGEN はい。村長のおじいちゃんの残した予言では、2013年と書かれていました。実際に僕が行ったのは2014年だったので、少し時間差がありますね。
舩井 村長さんからは、いろいろと未来のことなども示唆されていたのですか。たとえばひすいこたろうさんみたいな人に出会うことも予言されていたのですか。
SHOGEN そうですね、8000回話を伝えたときに出会うと言われていたのですが、実際は9302回目でした。これもちょっと誤差がありましたね(笑)。
舩井 タンザニアの村には、そういうシャーマンのような方がいらっしゃるのは普通なのですか。
SHOGEN 各村にいらっしゃいます。ブンジュ村は二代飛ばしでシャーマン気質の人が生まれるそうで、村長も村長のお父さんもシャーマンではなく、村長のおじいちゃんと、村長の息子がシャーマンでした。僕は滞在させてもらっていた間、ほとんどの村人と会いましたが村長の息子は腕しか見たことがありません。
基本的に人と顔を合わせず、ご飯を運んで行った際に腕だけ出てくる感じでした。もちろん話をしたこともなかったのですが、村長が亡くなったときはじめて電話を通じて話をしました。「(村長は)安心して亡くなったよ、もうあなたはブンジュ村に来なくていい。ブンジュ村はもう役割を果たして、全うしたからね。これからブンジュ村は近代化の波に飲まれて大きく変わっていってしまうから」と言われました。それ以来ブンジュ村には行っていないです。
舩井 本の最後に「この本を制作中に天に召された村長に捧げます」と書かれています。これを作るまでが、村長とSHOGENさんの共同作業だったのですね。
SHOGEN そうだったのだと思います。不思議なことに、村長が亡くなってから、ひすいさんの話し方とか言い回しとか、言葉の伝え方が村長にすごく似てきたんです。他にも村長が亡くなってからミラクルがたくさん起きて、それまでYouTubeの登録者数は2000人程度だったのが、1日で一気に5000人ずつ増えてあっというまに20万人になりました。本もその勢いで一気に広がりました。
舩井 去年の11月ごろの発刊当時、私の周りのスピリチュアル界隈の人たちはもう皆、SHOGENさんの話題で持ち切りでした。
SHOGEN ひすいさんと不思議だねと話していたのは、こんなある意味当たり前の内容が、これだけ多くの人に受け入れられたことです。出版して半年足らずで25万部です。ひすいさんもこんなに売れるとは思っていなかったと言っていました。もしかしたらタイミングもうまくかみ合ったのかもしれません。
舩井 私も、正直、普段であればそんなに強く興味を持つような本ではなかったのですが、縁あって読ませていただけてよかったです。スピリチュアルのことも知識としてはよく知っている自負はありますが、この本はこのタイミングで出ないといけない本だったんだろうなと思います。
「あなた、一回死んでた?」
舩井 少人数のお話会や、新幹線に乗り合わせた人たちにしてこられたお話などもふくめると、1万数千回を超えるほどあちこちでブンジュ村でのお話をされてきたのですよね。ブンジュ村の村長と約束されたから、そんなたくさんお話をされたのですか。
SHOGEN 約束というか、「かつてアフリカで人類が生まれて、酸いも甘いも経験しながら移動を続けて日本にたどり着いた。だから、私が伝えていることはアフリカから日本へのラブレターなんだ。それを届けてほしい」と言われていました。
僕が走り続けてきたもう一つの理由は、もう命が長くないと思っていたからです。僕は18歳のときに居眠り運転の車が正面から突っ込んでくる交通事故に遭ったのですが、事故現場が病院の前だったので奇跡的に助かりました。ただそのときに、お告げのような声を聴いていて、僕の命は38歳までだと言われたんです。はせくらみゆきさんやヒーラーの方など何人かには、「あなた、一回死んでた?」というのは結構聞かれましたね。
舩井 SHOGENさんは、今おいくつなのですか?
SHOGEN 今年38歳になりました。この本が出たとき37歳で、ああこれでもう自分の人生やり切った、満足だなと思っていました。それもあって全力疾走していたのです。でも、本ができた後、ブンジュ村の村長のおじいちゃんと夢の中で初めて出会い、「まだ死なないから大丈夫だ」と言われました。それでちょっとほっとして、最近は少しスピードを落としています。38歳がタイムリミットだと思っていたので、出版社の担当さんに2冊目の相談をいただいたときも、「いや、僕もういなくなるのでできないです」なんて言っていました。
不完全なものに人は癒される
舩井 アーティストの方は、絵を描いているとき、トランス状態(※2)になったり何かと対話したりすると聞きます。画家の先生や彫刻の先生にお話を聞くと、寝食を忘れてトイレにも行かず没頭している、というような表現をされる方が多いように思います。SHOGENさんは絵を描くとき、どうなるのですか。
SHOGEN 僕はもう、ものすごく幸せな気持ちになります。僕の絵は、何が出てくるかわかりません。ペンキ画を描くときは黒、白、赤、青、黄色、緑などの中から6色以内で描きます。ライブペインティングのイベントなどをさせていただくこともあり、最近は色をランダムで乗せて、そこへ厚紙を押し当てると手の圧で無数に出てくるいろいろな線から不要な部分を黒で塗りつぶしていくと何が出てくるかな、という描き方で作品を作っています。だから何か特定のものをあらかじめ想定してから描くのを目的にしていません。
舩井 SHOGENさんの作品は、子供たちの絵であったりキリンなどの動物であったりという印象が強いのですが、最近は抽象的なものを描かれることが多いのですか。
SHOGEN 海外ではずっと抽象的な作品を出していたのですが、日本ではわかりやすいもののほうが受け取りやすいようだったので、昔の絵を出していました。本に使われた絵などは、実は2016年までのタッチの絵なんです。
最近、アートの役割はなにかとよく考えます。人は、不格好な形や線を見たときにすごく心が癒されることがわかったのです。定規や型を使ってきちんと描かれたものではなく、不完全なものほど癒される。それを僕はアートを通して伝えているのではないかと思っています。
舩井 SHOGENさんの作品には、縄文時代の土器や土偶であったり、中南米のマヤやプレ・インカ文明のときのアートであったりといったものと共通する何かを感じます。はせくらさんも画家なので、そういったところを通じてより話が合うのかもしれませんね。これからは、お話を伝えることより画家として、芸術家としての活動をもっと増やしていきたいと考えておられるのですか。
SHOGEN そうですね、これまで僕が伝えてきた話は、本やYouTube、それからもうすぐできる映画がこれからは伝えて行ってくれると思います。僕は今2027年に向けて動いています。西アフリカのマリ共和国にドゴン族という部族が住んでいて、彼らは宇宙の法則をすべて知っていたのだそうです。ヨーロッパの天文学者たちがシリウスA、B、Cのシリウス三連星を発見する以前にすべて理解していたそうです。
お面をかぶって竹馬に乗りながら宇宙に祈りを捧げる儀式を行う部族で、2027年に60年に1度の彼らのお祭りが行われるんです。なので、そこに照準を合わせています。今は紛争などでなかなか渡航が難しいのですが、なんとか行こうと思っています。
舩井 日本人を目覚めさせる使命は2025年くらいまでに完了し、その後は世界中の人たちをインスパイアしていかれる予定なのですね。
SHOGEN 今年の春に、不二阿祖山太神宮の渡邉聖主大宮司からお聞きした話が印象的でした。最近、海外のスピリチュアルに関心の高い人たちが皆、富士山へ祈りにくるのだそうです。というのも、チャクラをすべて開くためには、日本の富士山のふもとへ行かないといけない、そうしないと一番上の8番目のチャクラが開かない、と言われているのだそうです。そんなふうに、日本に学びにくる人もこれからまたすごく増えてくるのではないかと思っています。
日本語を話せば世界は平和になる
舩井 父がかつて、世界中の人がすべて日本語を話すようになるというビジョンを見ていたようで、SHOGENさんが村長たちから聞いたお話と共通していると思っていました。
SHOGEN まさに、村長のおじいちゃんが同じビジョンを見ています。新たにそうなるわけではなく、もともとそうだったのだと言っています。
舩井 人類史的には、諸説ありますがアフリカで発生したホモサピエンスがさまざまな地を通り辿り着いた地が日本です。これは私のナラティブですが、それがおそらく縄文の最晩期くらいで、日本が一番人種のるつぼだったのではないかと思います。そのすべてが日本語を話し、日本人になっていったのではないでしょうか。
当時は「日本語」としてひとつの言語にまとまっていたわけではもちろんないですが、母音言語であることは共通していたので、そのうち同化していった。日本は単一民族とされますが、それはいろいろな人種を吸収して現在の形になったのだと思っています。だからこそ、DNAのレベルで考えると、日本人は元来さまざまな民族と同化していくことに長けているのではないかと思います。
SHOGEN 村長は「俺たちの先生は日本人なんだ」という話をしてくれました———
お読みいただきありがとうございました!
\ 続きはぜひ『ザ・フナイ』で!! /
全国の書店・ネット書店にて発売中です
*
『ザ・フナイ』とは?
マス・メディアには載らない本当の情報
選りすぐりの豪華執筆陣による、新聞・テレビなどが報道しない世界の裏の動き・情報を、毎月お届けしています。経営コンサルタントであった故・舩井幸雄が、日本と世界の将来を見据えて2007年に創刊した雑誌。舩井幸雄が自らの多様な人脈の中から選りすぐった豪華執筆者からの情報をはじめとして、まだ広く知られていない諸分野の情報、先がけた情報を、偏った一方的な見解ではなく様々な視点を用いて、毎月お届けしています。