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【港に輝いて】 フィクション
楠田は川沿いに並ぶ五分咲きの桜を眺めながらしばらく歩いた。海へ向かう方向へゆっくりと。この先には港がありいくつかの観光用のボートが毎週末の賑わいをみせるほかにも稀に海を渡り遠い国までのせてくれる大型船も停泊している。
小さく揺れる枝をそっと掴む。表皮にはまだひんやりとした感触が残っている。午後の太陽を譲り合うように枝が揺れる。隣の枝を掴むとその隙間を風が抜けていく。
コンクリートで整備されたスペースにベンチを見つけ腰を下ろし途中のコンビニエンス・ストアで買ったたまごサンドを頬張る。マッシュしたたまごのフィリングと半分に切られた半熟のたまごがねっとりとうまい。変に柔らかいパンが歯や歯茎にまとわりつくのを嫌いしっかりと噛まずに飲み込んだためかしゃっくりが出始めた。立ち上がる。太陽に近づいたのか、座っていた時よりも眩しい視界の先に海が見え、しゃっくりが小さな嗚咽に変わる。ふちの長めの野球帽を深くかぶり直す。それでも自分が強く照らされているように思えてならない。
歩く。人気の少ない電車の駅から川沿いを長く歩いてきた。極力少なくしたはずの荷物が収まっているリュックに重みを覚え始めた頃に港に着いた。楠田は大きく呼吸をし、外国行きの船の止まるシェッドへと入ると通関の手前のスペースに小さなカフェを見つけた。外から店内をざっと見回し座る席を定めコーヒーを買う。無事に目当ての席に着くと小さなマグに入ったマキアートに砂糖を二杯入れゆっくりと混ぜた。表面のミルクのフォームが砂糖の分だけ沈みそこからエスプレッソが見える。マグの底のコーヒー・シュガーがジャリジャリとした感触を指に伝え、楠田はぼんやりとその様子を他人のように眺めた。数秒か、それとも数分だったのか、焦点を失っていた視界に大きな影が見えた。テーブルを挟んで向かいの椅子に男がいつのまにか座っていたのだ。
「楠田さんですね」涼しげでいながらしっかりとした作りが重厚さを感じさせるキューバ帽、丸っこい手、厚みのある首、胸、肩。目深に被ったキューバ帽のせいかその表情はうまく汲み取れなかったがこの男は自分の名前を知っている、その事実が楠田を警戒させた。質問には答えない、その姿勢を貫くことに決めた。
「もちろん私の質問に答えない権利があなたにはあります。そして私自身あなたが答えようが答えなかろうが全く構いません。あなたが楠田さんであるという事実を私が認識できさえすればいいのです」
「よくわからない」楠田はそう答え「どちら様でしょうか」続けた。「私はあなたにとって利益でも不利益でもない存在です。今から私とあなたがどんな話をし、どんなことを感じようとあなたがここから出国することに対して妨げになることはありません。いきなり現れておいて勝手ですがこれだけは信じていただきたい。幾分勝手ではありますが」男はそういうと丸っこい手をテーブルの上に乗せた。
男が頼んだであろうカフェ・オ・レが届く。楠田は店員と目を合わせないように、それでいて自然に振る舞いように身をかがめてこぼさぬようにマキアートを小さき舐めるような仕草をした。唇にミルクが触れ、その後に強烈な苦味が押し寄せ、最後に砂糖の微睡むような甘味が流れ込んでくる。それらをかき消すような豆の酸味だけが口に残り、やがてそれも消えていった。
「楠田さん。私はあなたのやったことを正しいとも間違っているとも言いません。ただその出来事だけをありのままに捉えています」丸っこい手をを握り男が言う。「なんのことですか」楠田が返す。「楠田さん、何も言う必要はありません。あなたは局を陰で支え続けた人物です。約二十年の間、あなたが精密に組んだプログラムが局の優良なコンテンツを円滑に流してきたのです。まずそのことを伝えておかねばなりません」男の真っ直ぐな瞳は黒目がちで丸い。焦点が複数あるような不思議な説得力を持った目だ。楠田が冷静さを取り戻しその瞳を見ているうちに男は続ける。「そしてこの二年ほどの間です。低迷していた業界はこぞって不安を煽る報道をしました。簡単に数字が取れたからです。あなたはそれに異議を唱え続けた。こんな時だからこそ世相に流されず自分達のできる範囲で優良なものを作るべきである、と」楠田の喉が動いたが言葉は出てこなかった。「あなたは予想していた。毎日呪詛のように流れる不安を煽る言葉、並べられた数字。そして何より怖いことは人はいつか刺激に慣れていくということです。報道はさらに過激なものを求めていく。一部の人間もまた然り。それがこの今です」男がゆっくりとした口調で話す。「あなたは一体誰なんだ。そしてなんのことを話している」楠田が言った。すると男がカフェ・オ・レをひと口啜り椅子に浅く腰をかけ直す。「あなたは決断した。会社を去り、この国を去る、と。大きな罪に問われることはない、そしてあなたは何もしない時間、何者でもない自分に一度戻ることで自分のしたことを省みたい。そうですね?」
人気のないカフェに数人の客が訪れてきた。段々と船の出発時間が近づいてきているのだ。「いったいあなたは誰なんです?なんのためにそんなことを言うのですか?」楠田に焦りが見え始めた頃、男はゆっくりと立ち上がり告げた。「苦虫ですよ、私は。あなたがあの日噛み潰さなかったからこそ救われた命なんです、私は」
男はキューバ帽を取りそう言うと再びゆっくりと椅子に腰をかけた。「あなたは迷いました。コンピューターにセットしてあるプログラムを流せばいつかそれはバレてあなたのこれまでの社会的立場はなくなる。いろんなことを思い出されたはずです。あなたは顔を歪めるほどの葛藤に苛まれた。それでも最後にふと笑みを浮かべ局のプログラムをハックした」楠田が声にならない音を出す。「延々と続く猫や犬の番組。なんのメッセージ性も含まないピュアなものです。なんのプロパカンダでもない猫や犬の番組が丸一日続きました。私は噛み潰されずに命を取り留めその様子を見ていたのです」
楠田が短くため息を吐いた。「苦虫さん。私を身勝手だと思いますか」苦虫が答える。「身勝手。そうとも言えるかもしれません。局はあなたのものではないですから。それでも局の影響を受ける人々は局のものではない。あの日きっと私のように救われた苦虫が沢山いたことでしょう。多くの人々の心も救われたに違いありません。それが全てです」
二人はカフェを出て通関のある方向へ歩み出した。「でも苦虫さん、それは二日前の話ですよ。この二日間でよくそこまで大きくなられたものです。私の奥歯のあたりに住んでいたわけでしょう?」「ええ、不思議なものです。私も驚いています。今日はどうしても感謝を伝えたくて。いきなりの失礼をお許しください。ありがとうございました」苦虫が深々と頭を下げると触覚を港の風が揺らした。「いえ、苦虫さん、こちらこそありがとうございます。わざわざそのためだけに私に会いにきてくれて」
楠田を乗せた船が静かに港から離れていく。その様子を眺めていた苦虫は急に震え出した。そしてたくさんの小さな苦虫に分裂した。それぞれがそれぞれのいた場所に戻っていく。夕暮れ前に強く輝く太陽がその羽を照らし、それはなんとも美しく輝いた。
【続く】
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