【Squall】
Squall
午後の一時半に差し掛かったところで、ソムが買い物袋をぶら下げてアパートの部屋に帰ってきた。遅くまで寝ていたコーヘイは、随分と伸びきった髪をボサボサと振るいながら、食料品を仕分けて冷蔵庫にしまい込むのを眺めていた。
一通りの作業が終えて、ソムは冷凍庫からビニールの袋を取り出して解凍を始めた。中にはあらかじめ削ぎ切りにしておいた、青いパパイヤの実が入っている。
「これから年末までずっと仕事。だからコーヘイ、今日はクリスマスパーティーにしよう」
そう言うと、ニンジンやきゅうりを手慣れた様子で細く切っていった。
奮発したであろう、上等なカニカマを愛おしそうにほぐす。コーヘイの方をチラリと見る。コーヘイは寝ぼけたアシカのような目を壁にむけながら、小さなあくびをしていた。ソムが微笑む。
「マイペンライ」
小さく呟く。
「なんか言った?」
その声に反応したコーヘイが問いかける。
「なんでもないよ。今日も平和だなって思っただけ」
そんなやりとりをして、解凍の終わった青いパパイヤを水の中でサラサラと振り、ザルにあけた後に丁寧に水を切った。
ライムのジュース、ナンプラーに刻んだ唐辛子、多めの砂糖を混ぜ合わせ、野菜と一緒にゆっくりと揉み込んでいく。幸せな食事の時間を想像する。街のイルミネーションや行き交う人々を想像する。楽しげな騒音とそれぞれの店から溢れるBGMを想像する。手のひらの中の具材たちが、それらをまとめ上げるように美味しくなっていくような気がした。
コーヘイが立ち上がり、窮屈な洗面所に向かう。雑に歯を磨きながら、のそのそとくたびれたスウェットと下着を脱ぐと、洗面所の外に放り投げた。
ドアを閉める。洗面所の右側にシャワーがあり、左側に便器がある。大きめの淡い青いタイルが足の裏を冷やす。
所々に混ざる濃い青のタイル。それは深い海の底を連想させる。コーヘイはそれらを踏まないよう、ちょうどボクサーのように立った。シャワーの間、このタイルを踏まなければ、きっと悪いことは起きない。なにも無くさないし、苛立つこともない。そんなおまじないのような、ゲームのようなものだった。
小鍋に水を張り、火をつけて沸かした。そこにタイの米を入れ、時折シャワシャワと菜箸でかき混ぜながら茹でるように炊いていく。
十分もしないうちに米に火が通り、取っ手のついたザルに丁寧にあけた。
湯をあけたザルの下には深めのボウルがあり、そこには小さく切られた鶏の肉が塩をまとった状態で入っている。湯を切るついでに鶏にも火を通す、ソムがこの暮らしで得た知恵だった。
米を器に移し、蓋をする。蒸されて米が美味しくなるよう、サムが心の中で祈る。
同じザルに今度は鶏肉をあけていく。湯の熱が大きな湯気をあげながら、小さなシンクに気持ち程度に取り付けられたような排水溝に、ゆっくりと渦を巻きながら吸い込まれていく。
ちょうどそのタイミングで、コーヘイがシャワーから出てきた。やや癖のある髪も幾分まっすぐに見え、心なしか表情も穏やかに見える。
「もうすぐできるから、テーブル出しておいて」
そう言い、料理を仕上げにかかる。
「OK」
そんな返事が聞こえた。
チューブの生姜と塩、少量のメッキーというタイの調味料、ピーナッツの粉を合わせ、鶏肉と混ぜた。一混ぜごとに、美味しくなるように祈る。コーヘイを見る。今日も幸せに過ごせるように、祈る。何度も、祈る。
「うまい」
床に置かれた小さなテーブルに、ソムが料理を並べ終わるのを待たず、コーヘイが食べ始めた。
「うまい。これうまい」
食欲が溢れる。先に青いパパイヤとカニカマのソムタムを並べ、蒸されて爽やかな香りのでてきた米を配膳する。肉はコンビニやお惣菜屋のお弁当にも入っている。でも野菜は別に買わないと、しっかりと食べることができない。それに、野菜をしっかり摂ろうとすると、結構なお金がかかった。だから最初に並べる。
パパイヤと野菜のシャキシャキとした音が背中越しに聞こえる。その後にやわらかめの米を啜るように飲む音も聞こえる。
幸せな音に囲まれながら、ソムは鶏肉を一口味見した。砕いたピーナッツがとろりとした濃厚さを与え、時折まじる砕ききれなかった大きめのナッツの食感が楽しい。何度食べても飽きない、小さい頃からの大好物だ。
「ちょっと早いけど、メリークリスマス!」
ソムが満面の笑みで言う。
「ああ、そうだった。メリークリスマス」
コーヘイが食事に気を取られながらも返す。
「コップンカップ」
会話と小さな単語帳でコーヘイが覚えてくれた、数少ないタイ語でソムが嬉しそうに返す。
一度鶏肉に手を伸ばすと、コーヘイはソムタムの存在を忘れてしまったかのように、研ぎ澄まされた集中力で鶏肉を貪った。
奮発して良かった。ソムはその様子を見ながら、ソムタムを、皿に盛ったご飯の上に乗せ、タレを染み込ませるようにしてスプーンとフォークでゆっくりとそれを食べた。
今夜からはバーで働き詰めだ。きっとお給料もたくさんもらえるし、ひょっとしたらチップだってもらえるかもしれない。そんなことを考えながらスマホで時間を見た。もう三時を回っている。そろそろ出勤の準備を始めなければならない。
「コーヘイ、シャワー入ってくるから。食べ終わったら食器シンクに入れといて」
うん。そんな声が聞こえた。
鶏肉の最後の一口を食べ終わる頃には、きっと忘れているだろう。残りのサラダと米を食べ、満足そうな顔で横たわっているはずだ。勢いのないシャワーを浴びながら、ソムはその姿を思い浮かべた。
よく泡立てたタオルで優しく体を洗う。時折、泡を手にすくい取って、手で体を撫でてみる。硬い筋肉がまだある。もっと柔らかくなればいいのに。目を閉じて願う。祈る。泡を顔にのせ、カミソリで薄い髭を剃る。マイペンライ。自分はなんとか大丈夫。その後、ソムはコーヘイの顔を、また思い浮かべた。
シャワーからあがると、予想通りにコーヘイは布団の上に横たわっていた。テーブルの上には完食済みの皿が何枚か残されていたが、茶碗と箸はなんとかシンクに運べたようだった。
「お茶碗運んでくれた。ありがとう」
「うん。ごちそうさま」
日が暮れるにつれて、風が出てきた。
「コップンカップ」
二人の会話はいつもソムの言葉で終わる。
まだ湿気の残る洗面所で、部屋で唯一の鏡と向き合う。オレンジのコンシーラーを、口元のまわりのやや青い部分に伸ばす。その後、リキッドファンデーションを重ね、洗面所の湿気がなくなってきた頃にパウダーを軽く叩くようにして仕上げた。
目を閉じる。イメージしている自分の姿を焼き付ける。鏡の中の、自分と向き合う。目を逸らせば他のことからも目を逸らしたくなる。きっと。理想、思い描いていた自分とはまだまだ異なる自分。異なるメイク。異なる服。
コーヘイが着替えを始めた音が聞こえる。マイペンライ。そう言い聞かせる。
最近痩せたと感じる。以前よりも際立ってきた顔立ちの深さを考えて、全体的にメイクを控えめにした。
ピンク色の猫の描かれたポーチを閉じながら、今日は何時に帰れるかを思う。去年のクリスマスに、定職のないコーヘイが、どうにかして買ってくれたポーチを見るたびに、同じことを思う。生活のことを思う。できたら一緒にいることのできる時間が増えたらと思う。でもそれは、きっと難しい。コーヘイと一緒にタイで暮らすことができたら。そんな、何度も考えた物語を思う。
なんとか二人でバンコクに行くことさえできれば、今みたいにまずは自分が仕事を見つけることができるはずだ。そのうちに仲間や友人が増える。そうすればそのコミュニティの中で助け合いながら生きていくことができる。
東京よりもおおらかな場所で、コーヘイはきっと、昔のように自信を持って生きることができる。いい仕事を見つけることができる。そんな物語を今日も思う。
準備を済ませて、コーヘイの布団を整える。その隣に敷かれた自分の布団を整える。忙しくなる前に、玄関の前の通路で干しておけばよかったと後悔した。
その間、コーヘイは手持ち無沙汰か、部屋の中で柔軟体操をしていた。
まだ若い体はもっと動くことを要求している。もっと腹を満たすことを要求している。性欲の処理を要求している。友人と暮らすだけの日々に、行き場のない思いを抱いている。その姿を見るたびに、食堂と胃の間のあたりに何かが詰まったような感覚が脳に届く。それを吐き出せば、この生活は終わってしまうかもしれない。耳の中の遠くの場所で、雨の気配を感じた。
隣の駅にある、ソムの働くバーまで徒歩で送り届け、部屋までを徒歩で帰ってくる。それがコーヘイの一日の日課であった。
送ってくれたお礼にと、ソムは五百円を渡す。コーヘイはそのお金で、帰りにコンビニで甘いパンを買う。ポリポリとしたチョコレートの入ったデニッシュパンで、まだまだ余裕のある胃の中の隙間を埋める。
その生地の食べカスが服について残っていることもある。そんな様子をソムは可愛いと思う。同時に、そういったことに気づけるようになってほしいとも思う。
コーヘイは、街の外れのポスター屋にも寄る。日本語の流暢なアジアのどこかの出身の男の経営する場所で、そこではこっそりと、非課税で回ってきた海外のタバコを買うことができる。
たいていのタバコの箱には、読むことのできない、もしくはなんと発音していいのかわからない商品名が書かれていた。それでも不便はなかった。その店では銘柄指定などはなく、店主がどこかからか仕入れてくる非課税のタバコを、いくばくかの金と引き換えに受け取るだけなのだ。パンを買って、タバコを買う。それでだいたい五百円。
ソムは、帰り道のコーヘイのことを思いながら、バーの掃除をする。バーカウンターを磨き、お酒のボトルの置かれた棚とその周りの雑貨だらけの空間を磨く。掃除は苦ではない。
お手洗いをきれいにする。狭く風通しの良くないその場所で、夏には汗をかき、冬には水で手を振るわせる。
掃除をしている間に、おいしいものを食べることを考える。故郷のことを考える。雨の前の曇った空と熱のことを考える。街の、どこから鳴いているのかわからないニワトリのことを考える。両親のことは考えない。どうにもならないことを考えない。かつての居心地の良かった時間に、心だけが取り残されてしまいそうになるからだ。
そうこうするうちに、スツールにママがバッグを置く音が聞こえる。
「サワディーカー」
ソムが挨拶をする。
「サワディーカー」
ママが同じ言葉を返す。今日が忙しくなればいい、そんなことを話す。お昼は何を食べたのか、コーヘイはどうなのか。そんなことも話す。
ソムはこの時間が好きだった。この時間はタイのものだった。時々話し込んでしまうので、ママが来る前に開店の準備を大方終わらせておく。おしゃべりを楽しくしながら、機嫌の良い客が来てくれることを願う。だから、お店はできる限り綺麗にする。
それはどこか、おまじないのようでもあった。
ソムは思い出したようにバッグを広げ、家賃をママに渡した。中学を卒業し、お金も行くあてもない若い二人をどこからか見つけたママが、自分の名義で借りてくれている。それからこの店で働かせてもらえることになった。大人びて見える化粧を教わり、年齢を偽った。
ママは家賃を受け取り、「ありがとう」と日本語で言った。ソムとの個人的は話の時はタイ語で、日本人のことも含まれた話は日本語で話す。きっとそれは、ソムのことを考えてだった。ママはいつも優しい。
七時に開店し、三十分ほどは誰も来なかった。二人でグラスを磨いているうちに、入口のドアのベルの音がカリンカリンと鳴った。
入ってきたのは石黒という男だった。東京駅の近くのどこかのビルの、どこかの会社の、五十過ぎの社長らしい男だ。妻子がいる。でも男も好きだ。
ママが奥の席へ通し、いつものようにソムが隣に座った。この男はソムがすぐに隣に座ることを望んでいた。他の客が来る前に、自分の隣に座らせることを望んでいた。
店に保管されていたボトルをママが取り出す。おしぼりとグラス、氷とナッツを乗せたトレーを運ぶ。
ママも座り、少しの間、景気の話をする。石黒の手がソムの太ももの上に乗る。太い指、厚い手のひらの肉。脂っぽい体の熱の臭い。目も少しうつろだ。この男を好きでない。
この店で働いていた、薬物でおかしくなった人のことを思い出す。
いなくなる前は、すごく怖かった。小さな声や大きな声でよくわからないことを言い、一つ一つの動作の音にひどい嫌悪を感じた。何かを言いたそうにソムを凝視することが増えた。淀んだ目でソムを凝視することも増えた。だから、毎日コーヘイが迎えに来てくれた。
ある日突然、その姿を見ることはなくなった。ママはその人はどこかにいってしまったようだと言っていた。でもほんとうは何かあったのだろうと思う。
石黒からするのは同じ臭いだ。過剰に溢れた熱と脂の臭い。あまり近寄ってはいけない。近寄っては危ないことになる。その臭いはソムにそう伝えてくるようだった。その臭いがするたびに思う。この男は好きでない。
ママが他の二人に早めに出勤するよう電話をした。あと何時間もこの男の隣に居なければならない。どんどんと強くなる脂の臭いと、一緒にいなければならない。お酒がすすめば、もっと大胆に体を触ってくるだろう。お酒がすすめば、いつものようにチップをくれるだろう。
ソムは幼い頃のバンコクの外れの町を思った。居心地の良かった場所のことを思った。コーヘイのことを思った。今頃は部屋について、寝転がっているだろう。雨の音が始まる。一人でどんなことを考えてるんだろう。雨の音が、強まっていく。
ママはいつもよくしてくれる。ママのために働くのは好きだ。でもいつまでも続けられるかは別だった。
石黒がタバコを咥える。ソムが両手でライターをつけ、火を灯す。激しい雨で、何も聞こえなくなる。太ももの深くに手が伸びてくる。激しい雨で、世界の何もかもが見えなくなる。
石黒は十一時ごろに店を出た。いつものように、チップを直接くれた上に、ママにも渡していた。ママが店の外まで石黒を見送りに出た。
その後も店はしばらくの間大盛況で、結局閉店したのは二時過ぎだった。三人が片付けを済ませる間に、ママが手慣れた様子でご飯を炒めた。それをタッパに詰め、それぞれに渡した。
「みんなありがとう。お腹いっぱいにして、ゆっくり寝てね」
急に空腹に襲われ、たまらず一口食べた。ママの料理を食べると、ささくれのできた心が落ち着く気がする。ママはいつも優しい。
店の外に出ると、数十メートル先のコンビニの青い光の下で、タバコを吸っているコーヘイが見えた。
「コーヘイ、きてくれたの?いつから?」
ソムが嬉しそうに質問をする。
「さっきだよ」
コーヘイがそっけなく返す。
「うれしい」
つい本音が漏れる。
「なんだよ、それ」
右手からぽっとタバコを離し、落ちたそれを、スニーカーのつま先で潰した。
乾いたアスファルト。夜の道に二人の足音が鳴る。先の大通りの、車の音が聞こえる。雨はもう聞こえない。
コーヘイは自分のことをどんな人間として見ているのだろう。
日本に住む父の知人のタイ人が、ビジネスの話を持ちかけて、それに乗った両親と共にやってきた。
ソムがコーヘイと出会ったのは、その時期だ。
海外から転校してきた男子生徒を迎えたのは力の品定めだった。放課後にさっそく学年の悪い奴ら三人に絡まれているのを見かけ、コーヘイが割って入った。
右脚を鞭のように振るうと、一人が脛を抱えてうずくまった。その直後に両腕がぴくりと揺れたかと思うと、さらに速いスピードで残りの二人をのした。
コーヘイは今よりもずっと行動的で、運動ができて、自信に溢れていて、校内でも喧嘩の強い男だった。ソムはにっこりと笑ってぎこちない発音でコーヘイにありがとうと言った。その時もそっけない返事をされた。
中学を卒業する頃、父が毎晩酒を飲むようになり、「タイ人を騙すのはタイ人だ」そう繰り返すようになった。
父は騙されてお金を失ってしまった。ソムの両親は、二人だけでタイへ帰ってしまった。何もかも残したまま、突然消えてしまった。ソムを養うお金も、連れて帰るお金もなかったのだろう。
その後、奇跡のようにママがソムを見つけて、かくまうように世話をしてくれた。部屋を用意してくれた。ありがたかった。ソムはことあるごとにこのことを思い出す。
いろんなことを話した。仲良くしてくれているコーヘイのことも話した。両親を知らずに育ってきたことも話した。
中学を卒業したら、コーヘイも一緒に住んだらどうか、そんなことも言ってくれた。出会った頃から、ママはいつも優しい。
綺麗に欠けた月が見える。その周りに薄い雲が見える。黒ではない、濃紺。他にもいろんな名前で表せそうな夜の色。日本にはたくさんの青い色の名前があった。
こんな日は、きっともう雨が降らない。そう願う。
部屋に着く。電気はついたままだった。もったいないから消さないと。ソムが言うと、小さなテーブルの上に置かれたコンビニのケーキが目に入った。
「コーヘイ!ケーキどうしたの?」
「買った」
そんなことはわかってる。お金はどこから手に入れたのか、そんな顔を投げかけると、珍しくその様子を察したコーヘイが、
「いつもさ、ありがとうな」
ソムが目を丸くすると、
「あのさ、一日だけの仕事ができたんだ」
コーヘイが続けた。
「なにそれ」
想像もしていなかった返事にソムは少し嬉しくなった。コーヘイが、一日だけでも、仕事をもらってきた。だが、それもすぐに、さらに想像もしていなかった言葉につながっていく。
「ポスター屋いるだろ。そいつに持ちかけられたんだ。前金で一万もらった。仕事が終わればもっとくれるって」
ソムの顔が青ざめる。
「もっとくれるんだ。今日の昼の十二時に、東京駅の改札を出た先の観光客で賑わってるショッピングストリートの外で、この渡されたケータイをオンにして、ポスター屋に渡された番号にかける。使い捨ての手袋とかも渡された」
「コーヘイ。それ犯罪じゃないの?」
コーヘイがゆっくりと首を横に振る。
「すごく簡単だって言ってた。大丈夫だから安心しろって言ってた」
十一時になると、ソムはママに遅番に変えてほしい旨の連絡をした。元気な声でママはそれを承諾し、昨日のカオパットは美味しかったかどうかを聞いてきた。何の味もしなかったとは言えない。美味しかったからコーヘイが全部食べた、そんな半分本当の話をした。
「そうだろう、そうだろう、美味しいハムをもらったから、しっかり入れたんだ」
ママは誇らしげにそう話した。ママはいつも優しい。
二人は部屋を出た。穏やかな日差しと、不安な気持ちの差に鼓動が早まる。ソムが止めても、コーヘイは無理矢理実行するだろう。それなら一緒に行って、コーヘイが大丈夫なように自分がなんとかするしかない。マイペンライ。心の中で言葉にする。
駅までの道を歩き、東京駅へ向かう。ものすごい数のインバウンドの人々で押し潰されそうになりながら、アーケードを抜けて外に出る。
人のあまりいない、ぽっかりとしたエリアで、コーヘイが、ポスター屋に渡されたプリペイドの簡単な携帯電話の電源を入れる。起動するまでに一分はかかっただろうか、コーヘイは足元のアスファルトに、タバコの灰を何度も落とした。
「チッ」
タバコの火種までが落ち、それは元々は白かったスニーカーの色に馴染むように消えていった。風がひどく冷たい。
ソムは不安そうな顔でコーヘイを隠すように立っている。
携帯の電源を入れただけでまだ何も悪いことはしてねえよ、コーヘイはそんな顔で、もう一本のタバコに手を伸ばそうとしたが、箱の中はすでに空であった。それに気づいたソムが、オレンジ色の箱のタバコを差し出し、無理にニコッと笑った。先週の銘柄だ。たしか、あまり臭くなかったやつだ。いつものように、コーヘイのために買っておいてくれたのだろう。
携帯を操作できるようになった。その頃には手が悴んでいた。途端にソムはソワソワしだした。
録音機能の使い方を試した後、ポスター屋の店主から渡された番号に電話をかけた。随分長くノイズが続いた。いったいどこに繋げようとしてるんだ、不安がコーヘイの手に伝わって、少しの汗が携帯を手元から滑らせた。
「あっ、いけない」
携帯が地面に落ちる前に、というよりも手元から滑り落ちたとほぼ同時にソムが両手を素早く繰り出して、それをキャッチした。
ソムは携帯をコーヘイに渡し、さっきよりも自然に微笑みかけた。
電話の向こうから声が聞こえた。低い男の声だ。一度で覚えろ、その言葉の後にある住所が告げられた。千葉県の、比較的東京から近い場所だ。
短い言葉のやり取りを何度か交わした後、通話を切り、録音した内容をメモにとる。その後にプリペイドの携帯の録音を消す。一枚目の使い捨ての手袋をはめ、電源を落とし、布で綺麗に拭いた。
言われた通り、その近くにあるロータリーの排水溝に、奥へ滑らせるように携帯を落とす。
二人は改札で切符を買った。何年ぶりだろうか。好奇心でコーヘイが切符の端を片手で掴み、もう片方の手でその弾性を確かめる。ゆっくりと切符が元の形に戻る。濁流のような人ゴミの中、それを緊張した面持ちで改札機に入れた。一秒もしないうちに、切符は改札機を通過した。
電車の空席に腰をかけると、コーヘイはすぐに切符をしわしわにしてしまった。手に持ったものを過剰にいじる、昔からの癖だ。それを向かいから見ていたソムが楽しそうに笑う。
コーヘイの貧乏ゆすりが止まらない。善人、ゼンニン。そんな意味の名前のソムチャイが優しく笑う。
見てんじゃねえよ。そんな視線を送る。それを受けたソムが嬉しそうに笑う。
善人か。じゃあ日本の名前はヨシトだな。出会って間もなくの頃、そんな話をした。新しい土地で新しい名前をもらって嬉しそうにしていたあの頃と、変わらない顔でソムが笑う。
七年だ。もうすぐ二人は二十歳になる。
総武線の快速列車が、何度か長い停車を繰り返す。駅ごとの間隔が徐々に長くなる。
コトンコトンコトン、線路を踏み締める車輪の音を聞いているうちに、ありふれた厚手のフリースの内側が熱くなる。
コトンコトンコトン、車輪の叩くリズムを、鼓動が追い越そうとするのをなだめる。向かいのソムは、コーヘイ越しに窓の外を見る。徐々にビルとビルの間隔が長くなる。千葉駅を過ぎて、そこから少し先の駅で降りた。
駅のホームのCCTVを避けることのできる車両は指示されていた。問題は改札のCCTVだったが、運よく背の高い男の陰に身を隠すように出ることができた。ソムが丁寧に伸ばしてくれたおかげで切符も難なく改札を通った。
改札を抜けると、曇った広いガラス窓に曇った空が見えた。本棚があって、自由に借りることもできるようだった。
指示のメモを確認する。改札を出て右手の方向へ進み、階段を降りた。
駅前のロータリー近くの銀行といくつかの店舗を除けば、昼間の時間帯に人気はなかった。
「あ、猫だ。サバトラちゃんだ」
駅前のロータリーでソムが猫を見つけた。いつか猫を飼いたい。夜はバーの仕事があるから、コーヘイも一緒に世話をしてくれるとうれしい。それに猫は家を守ってくれるから。ソムはよくそんなことを言っていた。しっかりしているようで、家族のいない異国で、本当は寂しいのかもしれない。コーヘイはそんなことを思う。
そこから歩いて二十分ほどで、目的の一軒家に着くことができた。周囲の家屋と仕切られたように壁で囲まれている。ここも指示の通り人気がない。コーヘイは、玄関前の簡単なこげ茶色の門扉を開けようとしたが、自分が開けると言ってソムが前に出た。
このような状況でも、コーヘイの注意散漫な性格は何かしらの大きな音を立てるだろう。白いゴム手袋を装着し、しなやかな動きで門扉を開けてコーヘイを中に招き入れ、静かにそれを閉めた。
そのまま指示通りに、右側の庭の奥の勝手口まで進む。家の裏は貸し駐車場になっているようで、低めの塀越しに何台かの車が見えた。
勝手口はキッチンへ続いていた。そこで渡されていたビニールを靴の上に被せ、さらに消音用の布のカバーを被せた。
ソムが先頭に立ち、台所と繋がったダイニングを、ゆっくりと物音を立てぬように進む。
ダイニングの隣に物置となった寝室があり、出しっぱなしの小さな五月人形が見えた。指示されたのは、玄関隣の寝室だ。外に向かう景色を映す窓が見える。外から人影を悟らない位置を見つけながら、目的の寝室へと進む。
家の主は、怪我で入院しているとのことだった。何十年も行方不明の息子がいつ帰ってきてもいいように、裏の勝手口に鍵はかかっていないらしい。
コーヘイもソムも、依頼主がなぜそんなことを知っているのか不思議に思った。怪我をしたのは誰かの意図があったのかもしれない。ソムはそうも考えた。
おそらくこの寝室のどこか、もしくはリビングのどこかに通帳関連のものがある。それを見つけて持ち帰る。それがコーヘイの仕事だった。
寝室に入ると、随分と古そうな立派なタンスがあった。その横に引き出しのついた化粧台があり、コーヘイはその上に置かれた手紙を見つけた。
「なんだこれ」
コーヘイが大きな声を出したので、ソムは慌ててそれを制した。
「なんて書いてある?小さな声で読んで」
ソムは日本語を話すことができるが、読むのはまだ難しかった。
コーヘイは小さな声で手紙を読み始めた。
化粧台の隅に、この住人のものらしい電話番号が書かれた紙が貼ってあった。幾分黄ばんでいる。
「二日前だね」
ソムは化粧台の引き出しの中を調べた。すると、おそらく今までの手紙を集めたのであろう、何冊もの紙の束がでてきた。それをコーヘイがめくり、目についた手紙を読む。
「すごいな。すごい前のだ」
コーヘイが手紙の束をバサっと化粧台の上に放った。それが音を立てたので、ソムに何か言われると思ったのか、えへっとした顔を見せた。こんな表情はずいぶん久しぶりに見たように思う。自分の稼ぎでお金が入る、それだけで心に少しの余裕ができたのかもしれない。ソムは複雑な気持ちのままコーヘイに質問をした。
「コーヘイは、結婚したいと思う?結婚して、子供、ほしい?」
悟られまいと生きてきた。だから、こんなことを聞くのも初めてだった。
「わかんねぇな。親いなかったからさ、いや、いるんだろうけど憶えてないからさ、自分が結婚したり親になるってよくわかんないな」
親も親族も知らないコーヘイ。親に捨てられたソム。
「いや、わかる。結婚とか親になるってどういうことか。わかんないのは自分がそれをうまくやれるかどうかってさ」
二人が、息子の帰りをずっと待つ女性の書いた手紙をめくる。雨が近づいてくる。
「ねえ、コーヘイ。もうやめよう」
コーヘイがキョトンとした顔でソムを見る。
「お金なら稼ぐから。コーヘイもきっと、いい仕事が見つかるから。ママ、知り合いの店できっとコーヘイの仕事あるって言ってた。ねえ、もう帰ろう」
「ここまできたら帰れねえよ。すぐ見つかるから。そしたら」
ソムが右手でコーヘイの口を遮った。
「コーヘイ、静かに。なんか人の気配がした気がする」
近所の住人に不審な姿や音を察したものがいるのかもしれない。ひょっとしたら警察が近くに来ているかもしれない。
「コーヘイ。ゆっくり逃げよう。今なら間に合うから」
雨の音が聞こえる。ソムが窓の外を見ると、そこには確かに細かい雨が降っていた。
「ねえコーヘイ。バッグ持ってくれない?仕事に行けるように色々入ってるから、ちょっと重い」
「いいよ」
ソムは、スマホや財布の入ったバッグを渡した。
「勝手口出て左の低い塀の先に駐車場があるから、そこから逃げよう」
「OK。出よう」
先に逃げるように言えば、コーヘイはそれを聞かないだろう。ここへくる電車の中で、最悪の事態を色々と考えるうちに、あることを思いついた。最善の人生ではないが、それでも希望が残されるであろう道を。
ソムは頭の中で色々なシミュレーションをした。この状況で、最も良さそうなものを選んだ。
「コーヘイ。よく聞いて。まずはコーヘイが先に行って。コーヘイの方が大きいから見つかりやすい。だから先にいって。そのままママのところに行って。ママ、きっとこれからも僕らの面倒見てくれる。マイペンライ。きっと大丈夫」
コーヘイが目をキョトンとさせた。
「早く。コーヘイ先に行って。二人だときっとバレやすい」
「わかったよ。急かすなよ。すぐ着いて来いよ」
「うん」
ほんの数秒の間があいた。
「コーヘイ。コップンカー」
コーヘイがまた目をキョトンとさせた。
「早く出て。ゆっくり音立てちゃダメ」
「わかってるって」
コーヘイが身を屈めて、勝手口から出た。雨の音が強くなる。足音を隠すように。
二人とも捕まるのは一番良くない。コーヘイが捕まれば、コーヘイは日本で犯罪者になる。自分が捕まれば、なんの身分の証明も持たない自分が捕まれば、警察に色々聞かれた後に、タイに帰される。
タイに帰されれば、犯罪歴の残らないコーヘイはいつかタイに来ることができるかもしれない。
ゆっくりと進む後ろ姿を見る。日本に来たばかりの頃から、いつも味方してくれた背中を見る。学校からの帰り道、いつも先を歩いていた、親友だった背中を見る。部屋で、まだ幼い寝顔を隠すように寝ていた背中を見る。大好きだった。伝えることのできなかった、ずっと大好きだった背中を見る。
後ろ姿が家屋の死角に入り、消えた。塀を登り、すとっと降りた音が聞こえた。この音が他の誰にも聞こえていませんように。きっと大丈夫。あなたならきっと大丈夫。マイペンライ。小さく口に出した。
目を閉じる。もしタイに戻れたら、仕事を見つける。住む場所を見つける。そして日本語を勉強して、いつか手紙を書けたらいい。長くなるだろうか。それともとても短い手紙になるだろうか。
そうだ、コーヘイの名前は漢字でどう書くんだろう。ソムはそんなことに気がついた。手紙を書くなら、漢字も読んだり書いたりできるようにならないと。
でもそれは考えても仕方がない。意を決して勝手口から右側へ向かって出た。
見上げた空から雪が落ちて、眼球に染み込んでいった。冷えてキンとなる。冬だ。日本の、寒くて乾いた季節。雨も雪も本当は同じ物なのに、名前も形も、いつか変わっていく。生まれた場所があって、降りていく間に温度があって、どこかにたどり着く。
どこまで続くのかわからない、灰色の空をどこまで見渡す。今まで、その先にタイがあるなんて信じられなかった。
強くなった雨が肩を濡らす。足下を濡らす。顔を濡らす。そして、体の細胞の中の水分が、細かく震えるように小さな波を打つ。そんな感覚が広がった。
すぐに警察の姿が見えた。驚いた表情を作り、わざとらしく逃げるふりをした。
もう、きっと、雨の音は聞こえない。
森野きのこさんのアドベントカレンダーに参加しています!きのこさん、素敵な企画をありがとうございます!参加できて嬉しいです!