【溝の口distraction】 #逆噴射小説大賞2020ボツ作品
溝の口を買った。駅前のロータリーからちょっと離れた焼肉屋まで、その全てを。手にしてみると、満たされた気持ちと同時に違和感が訪れてきた。高津区という名称に、である。
おかしいな、こころのどこかがほつれた感じをおぼえつつ駅前のロータリー(もちろんわたしのものだ)を徘徊していた。
空を見上げた。川崎の空は今にも落ちてきそうな色でそこにあって、遠くに見える白かったはずのマンションのタイルが迫ってくる。
息が切れる。なぜわたしは溝の口を手にしたい、そんなことを思ったのだ。高津区の名がわたしにのしかかる。わたしは隣の高津駅に気を取られている。駅を出たらスーパーがひとつあったはず、そのような記憶しかないのに、だ。
動悸が激しい。マルイのエスカレーター(そう、マルイのエスカレーター、上り下りを問わずこれもまたわたしのものだ)に座り込み次の階へ。わたしに苦言を申すものはいない。なぜならこれはわたしの所有物なのだから。
カフェがみえてきた。
わたしはマルイの中で高津区という名称にすり減らされていた。わたしは溝の口を手にして初めて高津駅を意識した。意を決して電話をかけた。もちろん、あの日この街を手にするためにかけた番号に。
あえて2度目のコールで出たことがわかる口調で相手は出た。高津駅及びその周辺地域の値段を教えてください。そう聞いた。君からはもう十分に金銭の類はもらっている。ここはひとつ賭けをしてみないか?そう持ちかけられた。一時間後に田園都市線溝の口駅に最初に進入してくる列車、それは高津駅からかそれとも梶ヶ谷駅からのものか賭けようじゃないか、と。わたしが勝てば高津駅を手にすることができる。夢のような話だった。駅の名称も変えていいとのことだ。もし二子新地も手に入れることができれば区の名前を変えることはできるのでしょうか、気になっていた質問を投げかけた。無論問題は生じないだろう、そのような答えが返ってきた。
続