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愛聴盤3選 No.3

こんにちは、ぶらいんどです。気づけば誕生日を迎え、20歳になってしまいました。歳を重ねるって本当に早いですよね。知らぬ間に勝手に進んでいき、振り返ってみても過去はただ遠ざかるばかり。少し恐ろしい気もしますが、時間は誰にとっても平等に無慈悲なもの。抗っても仕方ないですね。結局、これからの時間も無駄に積み重なっていくでしょうし、それも悪くないのかなと。
全ては気の持ちようです。なんでもポジティブに捉えましょう。

そんなことはさておき、これが20代最初の記事だと思うとちょっとだけ特別な気がします。まあ、特別なことは書いてないんですけどね。ただ、いつもよりほんの少しだけ文章に力を入れてみました、ほんの少しですが。楽しんでいただけると幸いです。
では、お時間が許す限り、どうぞそのままお付き合いくださいませ。

Red / King Crimson (1974)

キング・クリムゾン『Red』は1974年にリリースされた、バンドの一時的な幕引きとも言える作品です。これまでのメンバーの離脱や新メンバーの加入を経て、この時点でのキング・クリムゾンは、ほぼロバート・フリップのキング・クリムゾンとも言える独裁的な状態になっていました。リーダーであるフリップがバンドの中心に座り、ギターの構築美と冷酷さで全体を支配する様は、まるでバンド全体が彼の意志に従って運命を迎えつつあるかのようです。

メンバーはシンプルに3人、ロバート・フリップ(ギター)、ジョン・ウェットン(ベース、ボーカル)、そしてビル・ブルーフォード(ドラム)。『Red』はこのトリオ編成で作られた作品ですが、少人数だからといってその音楽が簡素というわけではありません。むしろ、トリオになったことで音楽の密度と緊張感はさらに高まりました。また、元メンバーのメル・コリンズ(サックス)やデヴィッド・クロス(ヴァイオリン)がゲスト参加しており、過去のバンドの残響を微かに感じさせる瞬間もあります。

ロバート・フリップはこの時期になると、まるで音楽を作り出す機械のように冷静で計算し尽くされたギターを操っていました。彼のギターサウンドは鋭く、荒々しく、時に無機質でありながら、その中に不気味な人間らしさが垣間見えるのです。眼鏡を掛けた知的な見た目に反して、彼のギターは破壊的で、表題曲「Red」の冒頭リフなど、まるで全てをぶち壊すかのような圧倒的な重量感を持っています。まさに音の暴君です。

ジョン・ウェットンは、雄大で重厚なベースとボーカルでバンドにダークな味付けを加えています。大名曲「Starless」では、その悲痛なボーカルが空虚さと切なさを運び、聴く者を深淵へと引きずり込むかのような錯覚を覚えます。

ビル・ブルーフォードは、プログレッシブ・ロック界でのドラムの天才として知られていますが、『Red』では彼の華麗さは抑えられ、無骨で力強いプレイが前面に出されています。彼のドラムは一打一打がバンドの運命を刻むように響き渡り、ポピュラー音楽史に残る名演です。

キング・クリムゾンの『Red』は、バンドが限界に達した瞬間を捉えた、息苦しくも美しい作品です。フリップはこのアルバムの発表直後に解散を発表しました。メンバーそれぞれが自らの役割を冷静に、そして時に冷酷に果たし、最終的に音楽という名の戦場から一時撤退しました。ニヒリズムに満ちたこのアルバムは、人生の厳しさを反映していながら、どこか無駄ではないものを感じさせる、深遠な作品です。

Spilt Milk / Jellyfish (1993)

ジェリーフィッシュ『Spilt Milk』は、ある意味ポップミュージックの悪夢のような存在です。というのも、このアルバムはポップの黄金期への愛情たっぷりのオマージュでありながら、その背後には破壊的なまでの皮肉が潜んでいます。派手な色彩と過剰さが詰まった音のキャンバスは、アルバムのタイトルが示すように「こぼれたミルク」──つまり、過去に取り返しのつかないことを嘆くような感傷と、もうどうにもならない事態に対する皮肉が響いています。

音楽的には、ジェリーフィッシュはザ・ビーチ・ボーイズクイーンELOといった過去の巨匠たちの影響を惜しげもなく引き出し、70年代のグラム・ロックやバロック・ポップの要素をモダンに再解釈しています。ですが、それは単なる懐古趣味には終わりません。『Spilt Milk』は、あまりにも完璧に作り込まれたサウンドの中で「こんなに美しい音楽を作ってみたけど、全部無駄だよね?」という不気味な笑いが聞こえてきます。例えば「Hush」「Joining a Fan Club」の高らかなハーモニーとキャッチーなメロディは、一瞬楽観的に感じるが、その実、偽りの成功や一過性の名声に対する苦い嘲笑が滲んでいます。

ここで邦題「こぼれたミルクに泣かないで」の意味が浮かび上がます。このタイトルは、一見すると失敗や挫折に対する慰めのメッセージのように見えますが、実際にはその背後にある皮肉を巧みに示しています。ポップの輝かしさと美しさが織り込まれた音楽の中で、彼らが言わんとするのは、結局その美しさすら無駄であるという冷徹な現実。この邦題は、ポップな装飾が施された虚無感を表現するための絶妙な一手であり、「泣くぐらいなら最初から期待なんかするなよ」と言っているかのよう。

アルバム全体を通して、ジェリーフィッシュは失敗の美学を音楽の中に編み込んでいるよう。ザ・ビーチ・ボーイズがかつて「Good Vibrations」で提示した幸福な幻想を、彼らは同じレベルのハーモニーとプロダクションで再現しつつ、最後にその理想を足蹴にしてしまう。この捨てられた理想主義こそが『Spilt Milk』の音楽的中心にあります。

そして、彼らの影響力は奇妙に限定的。ジェリーフィッシュは、ポップ音楽史に名を残したいという意欲を持ちながら、その成功はごく一部の狂信的なファンに限られました。彼らが音楽シーンに与えた影響は、商業的成功の面では乏しいが、実験的なポップサウンドを求めるアーティストにとっては不変のインスピレーションとなっています。

つまるところ、ジェリーフィッシュの『Spilt Milk』は、極上のメロディに酔いしれながら、裏に潜む空虚さを感じ取らせる作品です。絢爛豪華な舞台の裏側にある退廃した楽屋を見てしまったような感覚にさせられるアルバム。全ての煌びやかな音が、最後には虚しさをかき消すための道具でしかないということを、彼らは暗に伝えています。邦題がその皮肉を一層際立たせ、ポップの幻想に潜む冷徹な現実を浮き彫りにしています。

Merriweather Post Pavilion / Animal Collective (2009)

アニマル・コレクティヴ『Merriweather Post Pavilion』は、壮大なサイケデリック・ポップの夢想を具現化したアルバムですが、その夢の中には冷徹な皮肉と虚無が漂っています。電子音の旋風や浮遊するシンセ、無邪気に響くメロディは、表面上は楽観的な美を装っていますが、耳を澄ませば即座に気づくでしょう──これは単なる音の錯覚に過ぎないのです。華やかなサウンドの饗宴に浮かれようと試みても、結局は無情な現実へと引き戻されるのが常です。

このアルバムが展開する音楽性は、夢のような浮遊感と、現実の無意味さの緊張感ある対比を描き出しています。エレクトロニックなサウンドスケープと自然音が融合し、その音楽は幻想的なパラダイスのように聞こえますが、その裏側には「この美しさには果たして何らかの意義があるのか?」という虚無主義的な問いが潜んでいます。壮大なサウンドが奏でられる一方で、それは結局砂上の楼閣に過ぎないというわけです。

サウンドの完璧さは言うまでもありません。重層的なシンセの波、複雑なリズムの展開、トライバルなビートとデジタルなサウンドが共鳴し合います。しかし、この完璧さが聴く者に一瞬の歓びを提供しながらも、同時にその美しさが持つ虚しさを感じさせます。音楽が描く理想は手の届かないものであり、聴き手はその享楽に酔いしれつつ、やがてその無常さに気づくでしょう。

アニマル・コレクティヴは、このアルバムでポップ音楽の枠を超え、深い音楽的探求を果たしていますが、その先に待っているのは、空虚な広がりです。『Merriweather Post Pavilion』が示すのは、ポップミュージックの夢と、それがいかに脆弱で無力かという現実です。サウンドが最終的には意味を失い、ただの美しいノイズとして消えていく中で、彼らはなおも煌びやかなサウンドを奏で続けます──まるで、無意味こそが至高の価値であるとでも謳い上げるかのように。

このアルバムが持つ音楽性は、浮遊感と夢のような響き、そしてそれに付随する虚無の感覚です。アニマル・コレクティヴが創り上げたサウンドスケープは、ポップの快楽を提供しながらも、その華やかな表面を眺めながら、最終的には全てが崩れ去る音のカーニバルを感じさせます。

さてさて、またしても文字数がびっくりするほど膨らんでしまいましたね。そんな感じに、気がつけば私も人生100年時代の5分の1が過ぎてしまったわけです。振り返ってみると、足らぬところだなと思うようなことばかりですが、その間に音楽がほんの少しでも私たちの心に彩りを加えてくれたことは間違いありません。
これからの人生も、これらの音楽がどれほど私たちに影響を与えるのかは分かりませんが、それが少しでも幸せなものでありますように。
それでは、また〜

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