竜胆晩夏
「死神と花」
蝉時雨のなかに、雨の匂いも含まれている。
そんな空気の中に、読経が昇っていく。
どうして、どうして。と
隣の女性は顔を覆って泣いていた。
死神の私はそれに答えられない。
私は、ただ見守るだけのものだから。
最愛の人を遺して去らなければいけない。
それはいつだって辛いものだ。
そんな場面を、何度も何度も見てきた。
いつだって、かける言葉は見つからない。
口にすれば、それが陳腐なものになるから。
長い、長い闘病の果てに
彼女の体は限界を迎えた。
それは自然の摂理である。
でも、心には助かるんじゃないかと
一縷の希望を持っていたのだろう。
希望は、時として凶器となる。
それが高いところにあって
向かっていく途中だったのなら尚更だ。
彼女が顔を背ける。
そして、ハッとするように表情を変えた。
エゾリンドウの青紫の花が
まだまだ多分に熱を持った風にそよいだ。
二人が好きだった花なの。
そう呟いた。
ゆっくりと近づいていく。
かがみこんだ彼女は愛おしそうに
花に手を近づける。
いつか、彼と行った高原に咲いていたの。
風が気持ちよくて、ずっとこのままでいたかった。
泣いても泣いても止まらなかった
彼女の涙が止まっている。
花言葉は…。
そう言って、言葉を切った。
そして、立ち上がる。
ねぇ、逝くわ。
泣いて悲しんでばかりいられないから。
凛とした姿が、風に吹かれる竜胆の花に重なった。
彼女の肩に手を置く。
さよなら、またね。
私の、愛おしい人。
短く、言葉を紡いだ。
光の粒が、夏の風に吹かれて昇っていく。
竜胆の花も、昇る風に揺れた。
空を見上げる。
入道雲が、大きく高くなってきていた。
夕立の予感に、折り畳みの黒い傘を取り出す。
『竜胆晩夏』