radio

憎悪よ おまえは
私がおまえを愛することが出来ない
とでも思っているのか

『いのちの芽』p361


渋滞で動かない車に気が触れそうであった。夜道は街灯や信号機のあかり、車のライトに彩られているものの、車内はほぼほぼ真っ暗である。

首が凝って、頭が痛くなりはじめる。
到着予定時刻がのびる。ナビがなんども新しいルートを提案してくる。

車内のBGMを音楽からラジオに変えた。
車がようやく高速に乗って走り出すと、ラジオの女性アナウンサーが詩の話をはじめて、おもわず頭の痛みが和らぐ。
『いのちの芽』(大江満雄編)という、ハンセン病療養所の入所者たちによる合同詩集の話だった。
タイムリーな話題だった。ちょうど読んでいる最中の本だったのだ。

あなたの苦しみに
静かに合す掌である。
あなたのうれしさに
固く握り合う掌である。

p295

言葉には意図せずとも「時間」が流れている。読み手は、言葉にあらわれた「時間」を、なんとなく感じている。
『いのちの芽』に掲載された詩には、わたしたちの知るものとは違った「時間」が流れている。それは「止まった」というには滑らかで、だけど「動いている」というには静けさに満ちていた。
本屋でページをめくっていた際、この不思議な空気感をひどく美しいと思った。

盲になったばかりの僕は、憐憫、侮蔑、好奇、
 冷笑の眼差しを痛く意識し、
呪詛と憎悪に尖った肩を怒らし杖を振った。
君等に人生の苦悩が解るか、
と精神的優越を痩せた胸に抱き、僕は過去の
 ちっぽけな経験を過大に想起し自負した。
哀れな自意識、悲しい虚栄。
それは卑屈の裏返しの虚勢。
三年間、杖をつき僕は知った。
静かに在らねばならぬということを。

p240「泉」



『いのちの芽』は、差別するもの、差別されるもの、病むもの、健全なもの、と常に両方の側面をもつわたしたち人間の奥底に、人間となにか、わたしたちはのどうあるべきか、答えのない問いを投げかける。

そうして詩を読んだあと、タイトルが『いのちの芽』であることに思いを馳せるとき、ことばには表せ得ない、希望のような温かいものに触れる気がした。

言葉の力、人間というものの美しさに、はっと気付かされる詩集であった。


ラジオはその後、「向き合うとは一体なにか」についての話へと移っていった。
アナウンサーたちの持論、リスナーの意見、どれも興味深く聴いた。
ラジオもいいものだなあ、と思った。

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