radio
渋滞で動かない車に気が触れそうであった。夜道は街灯や信号機のあかり、車のライトに彩られているものの、車内はほぼほぼ真っ暗である。
首が凝って、頭が痛くなりはじめる。
到着予定時刻がのびる。ナビがなんども新しいルートを提案してくる。
車内のBGMを音楽からラジオに変えた。
車がようやく高速に乗って走り出すと、ラジオの女性アナウンサーが詩の話をはじめて、おもわず頭の痛みが和らぐ。
『いのちの芽』(大江満雄編)という、ハンセン病療養所の入所者たちによる合同詩集の話だった。
タイムリーな話題だった。ちょうど読んでいる最中の本だったのだ。
言葉には意図せずとも「時間」が流れている。読み手は、言葉にあらわれた「時間」を、なんとなく感じている。
『いのちの芽』に掲載された詩には、わたしたちの知るものとは違った「時間」が流れている。それは「止まった」というには滑らかで、だけど「動いている」というには静けさに満ちていた。
本屋でページをめくっていた際、この不思議な空気感をひどく美しいと思った。
『いのちの芽』は、差別するもの、差別されるもの、病むもの、健全なもの、と常に両方の側面をもつわたしたち人間の奥底に、人間となにか、わたしたちはのどうあるべきか、答えのない問いを投げかける。
そうして詩を読んだあと、タイトルが『いのちの芽』であることに思いを馳せるとき、ことばには表せ得ない、希望のような温かいものに触れる気がした。
言葉の力、人間というものの美しさに、はっと気付かされる詩集であった。
ラジオはその後、「向き合うとは一体なにか」についての話へと移っていった。
アナウンサーたちの持論、リスナーの意見、どれも興味深く聴いた。
ラジオもいいものだなあ、と思った。