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Burma Roadhouse 創作行動理念
序
自分は F-MAD氏の「創作檄文」に賛同する。
自身が音楽を創作するものであり、演奏を行うものであり、自身の創作した楽曲をネット上に公開している、いわばインディーズのミュージシャンである。
そして月並みながら、あわよくばその活動から収入を得て、音楽を仕事とできないか、という思いも持っている。
そのような人間からして、氏の主張は非常に魅力的に感じた。「乗ってみようじゃないか」と考えた。「やってみようじゃないか」と思えたのだ。
もちろん主張は完全一致するわけではない。中には相容れないものだってあるだろう。だけど、それを否定してはいけない。当たり前。大同小異。先を見ていくのならば、そのようなものは些細な違いでしかないのだ。それぞれが抱いている想いをお互いに知りながら、それぞれの考えに基づいて、自分のできる範囲でムーブメントに参加する。それだけでも十分だろう。
ここに書くのは、自分の創作行動理念と運動への賛同理由になる。
氏のように人を引っ張るだけの考え・主張は、自分にはないと思う。そもそも人をリードして導いていく、リーダー的な資質は持ち合わせていない。他力本願と言われるかもしれないが、自分のキャラクターなのでご容赦願いたい。
創作行動理念
創作欲求
一言で言って、「衝動」である。
・「自分の曲を作りたい」衝動
自分でも理由がわからない。とにかく「自分の曲を作りたい」という気持ちが湧いてくる。「自分の音楽を演りたい」という想いが常にある。最近はそれが強くなっていて、抑えられない。
・「Bluesを演りたい」衝動
ここで言う「自分の音楽」とは、”Blues” 、あるいはそれをベースにした音楽。それを作りたい、演りたいという願望はBluesを聴き始めた頃からずっとある。この想いは今も変わらず、むしろ昔よりも強くなっている。
・「自分が演りたいと思う編成で曲を作りたい」衝動
バンド音楽が好きなので、自分の作る楽曲はバンドで使う楽器や編成を用いる。だが、Bluesなどに影響を受けているため、ホーンセクションやピアノなどがどうしても欲しくなってしまう。DAWの存在はありがたく、それがあるから、今自分は曲を作れている。
・「思いついたものを形にしたい」衝動
自分が曲を作るとき、歌詞の一部、あるいはリフやフレーズの一部が「思いつく」ことが多い。DAWで曲を作るようになる前から、思いつくことはよくあって、音楽を始めてからはそれを「形にしたい」と思う気持ちが強くあった。
承認欲求
以前は目立ちたがりやでしゃばりがおこがましい、卑しい、なんて考えていたが、今はそれほど臆さず言える。自分には、強い承認欲求がある。他者に「認められたい」「ほめてほしい」という想いを強く持っている。それは自分自身に対しても、楽曲に対しても、素質に対しても、である。
・楽曲に対する承認欲求
自分の作った楽曲に対する評価が知りたい。変なものを作っていない自信は、ある。でもそれがどのように思われているか。それはどこまで通用するのか。気にする必要はなくても、気になってしまう。自分の歌がどこまで通用するのか。自分のギターがどこまで通用するのか。自分がどの辺にいるのか、を知りたい。
・自分の演っているBluesが、Bluesであることの承認欲求
自分が演っている音楽は、Bluesである、という気持ちを持って演っている。ただそれがBluesであると認められるのか。それとも単にフレーズや弾き方を真似しているように見られているのか。自分の演っていることはBluesで、Bluesとしての表現ができていると認められたい。
また、自分の作っている楽曲が、Bluesとして通用することを、知りたい。
・Bluesに対する承認欲求
BluesはJazzとともに、RockやPopなど現代ポピュラー音楽の元となっている音楽の一つである。世界的に認知されているジャンルだが、特に日本では認知度が低い。演歌の「○○ブルース」と混同されてしまうこともあるかもしれない。
自分はこのBluesというジャンルを、もっと多くの人に知ってもらいたい。聴いてもらいたい。Bluesの世界、雰囲気、楽しみを感じて欲しい。Bluesとは物悲しい暗い曲だけでなく、楽しいパーティーソングもあることを知ってほしい。
また、Bluesは「いろいろな音楽に対応できる!」という持論を証明したい。現代のR&Bやソウル、EDMにだって合うのだと、融合できるのだということを、楽曲を通して証明していきたい。Bluesは時代遅れではない、ということを。
発言欲求
・発言・抗議の手段
自分にとって歌・歌詞は発言の手段である。昔から歌詞がモノを言っているアーティストが好きで、その影響で歌詞に何かしらの主張や意味を含めたがる。そのような歌詞を含む楽曲は、自分にとっての主張であり、時には抗議であり、時には自己感情の吐露である。基本文章力がないのだが、歌詞のほうがまだ書きやすい。
そして自分の発言や感情の吐露が、リスナーの共感を得て、時に反面教師になったり、時に励ましになったりしたら、これほどうれしいことはない。
「創作檄文」に賛同した理由
世の中にはごまんとクリエイターがいる。インディーズのアーティストがいる。皆それぞれにいいものを作っていて、リアルで、ネットで公開・発表している。自分ももちろんその一人で、主にストリーミングサービスとSNSで拡散活動を行っている。
然るに、その活動は草の根のようなもの。もちろん容易にリスナーやフォロワーが増えるわけでもない。その活動を通して、認知されることの難しさと聴かれずに淘汰されてしまうことに対する不安を感じている。
日本の音楽シーンへの疑問もあった。どんなにいい音楽でも、キャッチーなビジュアルがなければ、流行りの音楽でなければ聴かれもしない、見向きもされない日本のメジャーシーンに。インフルエンサーやマスコミの紹介がなければ音楽を聴かない日本の一般リスナーに。
そして、ヒエラルキーの一部上部のメジャーアーティスト以外は、その収入では仕事にすることはおろか活動費の足しにもできない、日本の音楽業界についての疑問もある。
これらの不安や疑問に対し、F-MAD氏が創作檄文で示してくれた内容は、日本のインディペンデントなクリエイターの現状を変えられる可能性のある手段の一つであると思わせてくれた。
・「認知されずに淘汰」されない環境を作る
・そのために作り手同士が繋がって、お互いを認知している集合体を作る
・そこで個人それぞれが自己責任で、自由に活動を行う
世間が無視できない母体の形成とそこからの実力勝負。決して互助会でもないし、組合でもないし、ましてや宗教なんてものではない。個人が何かに縛られることのない集合体。これはその相乗効果で、今のシーンとは異なるものを生み出す可能性がある、と思わせてくれた。
何もしなければ、何も生まれない。
何もしなければ、何も変わらない。
過分に他力本願かもしれないが、自分にアイディアがない状態で、あってほしいと願っている状況を生み出すかもしれない何かがあるのであれば、それに賛同しない手はない。そこに臆病になる必要は、ない。
F-MAD氏の主張の熱量にもやられたかもしれない。非常に熱く、扇動するような口調であるが、嫌悪感は湧かない。むしろ私は、好感を覚える。「正誤なく」「否定せず」「軽蔑を嫌い」「尊重して」「議論をする」。自分は性善説な人間なので、そのように公言しているのであればそのまま受け止めそれで決めた。
「やってみようじゃないか」
結 -- No Retreat, No Surrender --
F-MAD氏から「自分の創作檄文を書いてみては」とツイートが入ったとき、書いてみようと考えたのと同時に、「何を書きゃいいんだ?」と思った。『自分の意見や主張を発信する』ということだが、果たして今まで、「創作」に対して考えや主張があったか、と。
一時期流行ったWeb診断で「右脳人間」と診断されるように、自分は感覚的に考えて感覚的に反応・行動するタイプ。自分は「論理的」に考えることが得意ではない。「論理的」な発言もまた、得意ではない。文章も苦手で、結局この記事を書くのに1日位費やしてる…正直、考えでも主張でもない何でもないものになったかもしれない。
とはいえ最後に、決意表明的に言えることはある。
音楽を作ることは、やめない
Bluesであることは、やめない
「創作檄文」の運動が、たとえ実現しなくても。
「創作檄文」の考えに賛同するとともに、できることを協力していく。