〈第21歩〉濵田英明「時間の面影-Resemblance of time-」を通して《4・end》
こんばんは。精神科医と写真家の二足歩行、今日で21歩目の『BURARI|ぶらり』です。いかがお過ごしでしょうか。高松⇔羽田のANAはターミナルを使用したりバス移動があったりするので、今回はJALにしてみましたが早速遅延でした。会いたい人がいる時は5分すらも長く感じるものです。
今日のぽつり
空港の保安検査場を通る時、今回は初めてカメラにフィルムが入っている状態でオープンチェックをせずにX-rayに突っ込んでみました。ISO400だからいけるのではないかという実験です。
これまでの歩み
濵田英明「時間の面影-Resemblance of time-」を通して
④ある男性の質問
『腕の悪い芸術家は互いの作品を誉めあう。/オスカーワイルド』
いつも褒め合っている芸術家の中でも素晴らしい方はたくさんいることを前提にして、やや批判的に物事を見てみるのはとても自己満足に叶い、誰かのためでは決してないのがミソだと思う。
まず一歩前の話のところで、濵田英明トークショーの最後の質疑応答で2人の男性がそれぞれ質問されていたと書いた。そのお二方はどちらも自分の考えを言語化するのが得意な方なのだろうという印象を受けたが、今回は1人目の男性の質問を振り返ってみようと思う。
「(略)“あると感じる”ことと、“ないと感じる”ことは因果関係なのだと思うのですが、濵田さんのおっしゃる“ないようであると感じる”ことと“あるようでないと感じる”ことの関係性や考え方に共通点はあるのでしょうか。」
おそらくその質問者の言葉を置き換えた事象でいうと、『光があるから影がある。』ということに近い。
濵田さんの“あるようで、ないようで”の事象は、『空(そら)に虹がかかり初めてそこに空(くう)があると認識できる。』ということ。
前者はどちらも元々存在している、あるいは片一方が存在していないと存在し得ない関係性。
後者は“ない”と思っていたもの(例えば空間)が“ある”ものの出現で“あった”のだと初めて認識できるという関係性。
似て非なるものではなかろうか、と考えた次第です。
(あ、でも男性が話していたことの中に濵田英明の考え方に沿った例も出てきてた気はするので、対比のために一部だけを引用したに過ぎません。)
濵田英明(敬称略)はどういった答えを提示していただろう。忘れてしまった。おそらく濵田英明がおっしゃっていた他の例だけ添えておこう。
⑤表現すること
ところで、もし共通点があったとして、あるいはなかったとして、そこに何か意味はあるのかな。
やはり批判的に見るなら、濵田英明が“あるようで、ないようで”の思考実験とは言ったものの、それを感じることのその先に何があるのだろう。それを考えることのほうが大事なのではないか、とも思う。
濵田英明がその先に答えは必要ないと考えているとしたら、“あるようで、ないようで”の感覚が「表現できました!」あるいは「表現できたのではないかと思うのですが感じ方は皆さんにお任せします。」止まりではないだろうか。
おそらく濵田英明自身がそういった感覚を大事にしていることは伝わるし、それを表現でき共有すら叶えるのは本当に凄いこと。到底真似できないし、1人の表現者に魅了されていることは間違いない。ただやはり行き止まってしまう場所は、濵田英明という表現者そのもの。濵田英明が自身で概念を設定し、テーマを据え、形にする能力(写真、動画、展示方法)に長けているという事実。
“あるようで、ないようで”という感覚を感じることや持つことでいいこともあるかもしれないし、よくないこともあるかもね。
そのあたりで僕は止まってしまうのだ。この展示でほんの少し寂しかったことは、多くは語らず正直になると、(展示方法が目立ってしまったが故だろうが)どの個展とも何も違わない気がしたからだと思うんです。
もし行き止まりにいる僕にその先に進める方法が見つかった暁には、個展を開くことになるのかな。どうなることでしょう。
⑥もう恋なんてしないなんて
こういう歌にも共通する部分はありそうだから、おそらくたくさんの人が触れている感覚なのだとも思う。大事に思っている感覚だからこそ、なぜ大事に思うのか、その答えを探すようにこの世に様々な表現方法“が”産まれ落ちるのでしょう。
そんなことを考えて自己に浸る時間はこの1週間で一旦中止。今日も大切な人に会いに行く、それだけです!
では、また。