〈第51歩〉『私が気になるnote家』展①
こんにちは。精神科医と写真家の二足歩行、今日で51歩目の『BURARI|ぶらり』です。いかがお過ごしでしょうか。哲学入門書を読み進めていくと、世界の仕組みを少しずつ分かっていく感覚があります。でも、解明できないもののほうが多いこともなんとなく分かってきます。
今日のぽつり
最近はめっきりデジタルカメラの使用頻度が減っているのに加えて、おおよそ50mmの画角であとは自分の足を動かすことを今のうちにしておこうという気持ちが芽生えたので、大学の時から大切に使っていたSONYのα7Ⅲを手放すこととしました。同時に一丁前に揃えたレンズも手放しすことにし、それらについては大切にしてきた思い出と共にいつかnoteで振り返ろうと思います。
たちまちは僕にカメラを買ってくれた両親に感謝メッセージを送ることとしました。
『僕が気になるnote家』展①
はじめに
近頃の僕は、人が“表現”することについてちょこちょこ触れてきているわけですが、そんな中で言葉をメインに使用し自身を色んな形で表現するnoteという場は特に自分のお気に入りになったかもしれません。
僕は精神科医×写真家として自分を“表現”し、他人のnoteを漁っては「そういう考えもあるのか。」や「素敵な感性をお待ちだ。」と、勝手にスキを押してたりするわけです。
しかし、スキを押すだけでは何か物足りなさを感じてしまうのがnoteの住人なのではないでしょうか。(稚拙な文章になってしまうのは百も承知で、)僕が気になった方のnoteにあえて考察を挟んでみたり、あるいはラジオで話すくらいのラフな感じで思ったことを言葉にしたりしてみようと思いました。
題して、『僕が気になるnote家』展がここに開かれます。1人目はやはり僕が勝手に好いているこの方のnoteから。
濵田英明/Hideaki Hamada
noteを書くことをメインにしてる人ではないぞ、とお達しが来そうですが。あとここまで濵田英明さんのことをnoteに書いているとストーカー程度には怪しまれそうですが、追っかけというよりは推しみたいな感じです。初めはこの方に触れておきたかったというところで、そんな素敵な写真家(noteでは『おでん屋』)のnoteの中からひとつ引っ張ってこようと思います。
写真がそもそも好き。
冒頭部・・・「あります。ありまくります。」としか言えないです。noteに時間をかけて書くときですら、「この言葉遣いは合っているのか」と違和感を持っているので、リアルタイムで会話をしている時はなおさら気を遣ってしまうことはよくあります。言葉を選ぶというか。「話すスピード、ゆっくりですね。」なんて言われるのはそのためでしょうか。ただ、言葉を選んでいるというその行為自体が相手に距離感を与えてしまうことなんてよくあるから、一概に良いこととは言いにくそうだったりもします。
二段落目・・・広義の意味で捉えるならば、誰かが使う言葉を借りるというのは、会話をする中で共通言語を用いているというただそれだけのことではないでしょうか。なぜ?と問われると、仲間意識が本能的に備わっているのかもしれませんね、というのが暫定的な答えでしょうか。『自分のことをきっちりと表す』=『自分の〈内面〉と〈外面〉を一致させること(※以下、“正しさ”と呼ぶことにする。)』とするならば、自分が持っている言葉をそのままに表現〈expression〉したと思っていてもその言葉はやはり(学習による言語獲得という意味で)借り物であって、“正しさ”は自分にしか分かり得ないためそこまで悩む必要がないことなのかもしれません。つまり、他者には自分の言葉の真意は絶対に見抜けないし、分かり得ないということです。そんなわけで、このタイミングである程度の着地点を言ったほうが良い気がしますね。それはおそらく、「分かり得ないのだから言葉にすることを諦める、とはならない。なんなら諦めない!」に着地するのだと思います。『言葉にすることを諦めないこと』の善し悪しは置いておいて。
三段落目・・・“正しさ”とは“自分だけ”が分かり得ることだとして、“相応しさ“は“他者にとって”とするならば先ほどの話とは少し変わってきそうな予感もします。他者に“正しさ”は伝わらないにしても、例えばその人と仲良くしたいとき、または別の人とは縁を切りたいとき、そこには表現において“相応しさ”を要するときはあると思います。そのための言葉を集めるには、仰る通りたくさんの言葉やシーンに触れる必要があると思います。おそらく後半部分で触れている『100%分かり合うことはできない』は、“正しさ”についてであり、“相応しさ”と混合すると齟齬が生じる危険性があると思います。話は少し逸れてしまったかもしれませんが、ではなぜ写真(=表現方法)という術を見つけたのか。それは“相応しさ”をなるべく“正しさ”に寄せて生まれる『自分への素直さ、他者への誠実さ』を体現するのに言葉だけでは埋められない部分があったからだと思います。言葉があるならそれでも良かったものの、その言葉が見つからない、あるいは言葉がないから他の術を要しただけのことではないでしょうか。(もちろん写真が本来そのような意図で生み出されたかどうかは別として、術として昇華したという点において。)ただ、『自分への素直さ、他者への誠実さ』を体現するのにやはり言葉も必要なことに変わりはなく、写真だけで補完できるということではおそらくないのでしょう。それゆえに、『言葉にすることを諦めないこと』が『自分への素直さ、他者への誠実さ』を体現することに繋がり、ひいては人生を豊かにしてくれると信じておられるのだと推し量ることができます。
以上、濵田さんの数あるnoteの記事からひとつピックアップして考察してみました。
いかがでしたか。言語化って難しいですね。言葉にする必要のないと思う時もあって、言葉だけでもなんて複雑な仕組みが構築されてしまったんだと改めて考えさせられました。
この話とは別にしても、写真はもちろんのこと、写真に対する考え方、さらには人が生きることに対する考え方、そしてその考えをどう形にしていくかに真剣なその姿勢に、濵田さん、僕は惹かれているのだと思います。先日濵田さんの個展にお邪魔した時も、ご本人と対話したり写真撮影の機会はあったと思いますが、私はそのどれもすることはなく基本彼の話や仕草を見ていただけでした。ただ、いつの日か、私が対話できるほどに成長できた暁にはぜひもう一度(互いを認識した上で)お会いしたいと願ったりします。
今日は気張り過ぎましたね。もっとラフな回もあるので、リラックスして歩いていきましょう。
では、また。